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日语学术论文

发布时间:2024-07-04 22:32:26

日语论文学术

日本是个很注重礼节的国家,那么它的`论文致谢词写法与我们有什么不同呢?接下来我们就通过学术堂为大家整理的日语毕业论文来比较一下吧。

日语毕业论文谢辞范文一:

本论文を书いいる间に、指导教官のxxx先生に、论文のテーマ决定から、资料収集、书き方、言语表现まで常に丁宁に温かくご指导いただき、诚に感谢の念にたえません。また、日本语学部の诸先生からご指导いただき、谨んで感谢の意を表しま。そし、同级生からいろいろ支援しらっ、有り难うございました。の场を借り心から感谢の意を表しま。特にXXX讲师に、指导教官とし热心なご指导を赐りました。に改め御礼を申し上げま。

日语毕业论文谢辞范文二:

本论文をまとめるにあたりまし、指导教官の晋学新先生にいろいろご指导とご支持をいただき、また、日本语学部のほかの先生よりいろいろご助言をいただくとに心よりお礼申し上げま。

资料収集やコピーの面でご协力くださった日本语科の先生方、友人达に感谢の意を表したいと存ま。

卒业论文を书く途中、私の知识の足りなさに悩んでいる时にクラスメートと家族に励ましいただきまし、で合わせ感谢申し上げま。

また、晋学新先生のご指导のおかげで、四年生のときから、まめに勉强る习惯を身につけ、大学院の入学试験を受けるとを决めました。再び心より感谢いたしたいと存ま。

の卒业论文は私の研究活动のはめで、今後っと勉强し、その问题についさらに研究しいきたいと存ま。

日语毕业论文谢辞范文三:

の论文ができあがるまでの道程を振り返っみると、改め、私を支えくれた人々のとを思い出。

本论文を执笔るのは私だけであったが、数多くの人々の手助けがなけれ完成できなかったと思う。ま何より、私の论文指导教员である恩师の○ ○○先生に深く感谢しなけれならない。

それから私の在学しいる○○大学の○○の诸先生がいつ励ましくださったと、私には大きな力となった。论文书类作成などで教务课の先生にいろいろお世话になった。诸先生にお礼を申し上げたいと思う。

最後にいつ私を支えくれた両亲に感谢の念を捧げなけれならないと思う。

关于日语论文致谢

关于日语论文致谢如何写呢?欢迎阅读我整理的关于日语论文致谢,希望能够帮到大家,也祝福各位同学有一个前途似锦的未来。

关于日语论文致谢篇一:

三年の博士生は生活が一晃て、振り返って歩いた歳月、心が充実して、论文がまもなく完成する日、感慨がたくさんある。まず心からの感谢私の指导者张新时院士、论文からの设计、野外试験及び论文の定稿にする过程の中で、菜种から油までさんの心血がこめられてい。さんは厳格な学问の道、寛大仁慈な胸、积极的に楽観的な生活の态度は私の一生の学习の模范を确立して、彼の教诲と叱咤激励私は科学と教育の道に励精图治、开拓・革新。

私は最も真挚な気持ち感谢福建师范大学の地理科学学院教授杨玉盛博士に感谢して、彼は私の论文の全力支持を提供して、私はすべての実験の条件、実験の构想、経费、人员を実験机器に感谢して、彼のチーム――福建设省亜热帯资源や环境重点実験の全体皆様、言うことができるのは彼らがなければ、私は今日の论文。感谢の重点実験室李旭、李春林先生、実験场の建设で実験条件の准备に私の便宜;感谢杨智杰先生で、彼は私に教えてくれた1台の実験器具の使用は、彼の猛暑の炎阳が一日中一日中やってくれた実を検査して、私が困难な时いつも提供无私の助けに感谢し钱伟;実験室の先生が、机器の使用、実験の手配と、実験の条件の准备に私の支援を提供し、感谢の実験室の王健先生、私の困难奋闘の日の中で私に生活の上の各种の助けに、私を励まして、私のために分担する様々な困难;感谢谢锦升、実験室陈光水、马红良、郭建芬先生、私に提供した実験构想、実験方法の指导に感谢はかつて、実験室HTC先生、无数の花の时间を私はコンピューター処理问题、感谢の実験室の研究生韩志刚て使用机器、毎回やってくれ外业実験器具、毎回问题解决には各种の方法を考えつくしてくれ。感谢福建省亜热帯资源や环境重点実験の研究生达が、ここで、私はいちいち列挙彼らの名前を私の感谢の気持ちに感谢して、彼らは私に一年余りの提供する助けと関心、彼らと一绪にいた日々楽しくて充実して、彼らは私の记忆の中で最も美しい风景。ここで、私はさらに丁宁に感谢私の「おにぎり」同志たち、崔纪超、李机密、黄玮、杜紫贤、彼らは私に単调で无味乾燥の研究生活を添えたきれいな色彩、私の実験で最も困难に最も必要な时、彼らはいつも一番时间を置いて工作无私なのは私の全てを私は気分が落ち込んでいる时に私のために困难を、私は自信が足りない时私に応援して、生活の见闻で、助けてくれて、私に励まして、忘れがたいときに一绪に喜びとお笑い、いっしょに笑い声が长安で麓。

私は丁宁に感谢私の修士の指导者、福建农林大学の林学院教授吴承祯博士卒业、私は彼を离れて、しかし私の心の中ではまだ彼の指导の下、学术上の难题にした私が最初に思った彼を探して彼は真面目で総我慢の彼博学の知识を教えて、私の论文の初期の构想で実験の実施また実験データの分析、一歩も呉先生の深远な思想の中に、私は私の恩师に感谢。

ありがとうございます私は福建师范大学の寮の友达、上品香、柯春婷、贾瑞霞、彼女たちは私に无条件の入った彼女たちの寮は、後の日の中に、私は大きな便宜と助けに、私の実験が紧张した时私の実験で、気分が落ち込んでいるときに私のために困难を解难、楽しくて暖かい寮生活いつも持って私の気持ちがいい、気持ちは生产力、忘れがたい过去の一年多く私达と一绪に过ごすの少し。

私の先辈に感谢して、北京师范大学资源学院の先生龚吉蕊博士、彼女はいつもこまめに闻いてくれる私の论文についての私の実験では、私は困难に遭遇したこと、私に解决する构想を提供して、添削して论文;感谢北京师范大学资源学院の先生黄永梅博士、私と讨论私の実験のアイデアを、私は积极的にの提案。

感谢北京师范大学资源学院教务课崔维佳先生に感谢して、彼が私达のしたすべてに感谢して、彼は私の多くの便利を提供して、感谢と私は一绪に戦って博士クラスの友达、吴晓旭、张智才、徐蕾、夏虹、林艳、本当に国巧、呉建寨、陶岩、闫玉春、刘扬など、彼らに感谢します私料理学校の各事务、私と一绪に生活の喜怒忧楽。

私は私の恋人、助けて、思いやり、寛容と支持と、この3年の博士生生活はとても违う光景だと信じます。彼は自分の博士论文の完成と同时に、私は実験をして、家のすべての事务を担负します;私は论文を书く过程の中で私の考え方を整理し、探して、患者は何度も闻いてくれる私の论文;私の论文を完成した後、二人は専门の背景の违いのような大きな场合に论文を直してくれた。

最後に、谨んで文に私は爱する両亲、彼らの背後に黙って支えては私の前进する动力、论文と実験のために、私はもう二年以上见ない代の、彼らにひどく耻じ。

中文翻译:

三年的博士生生活一晃而过,回首走过的岁月,心中倍感充实,论文即将完成之日,感慨良多。首先诚挚的感谢我的导师张新时院士,从论文的设计、野外试验及论文的定稿过程中,自始至终都倾注着先生的心血。先生以严谨的治学之道、宽厚仁慈的胸怀、积极乐观的生活态度,为我树立了一辈子学习的典范,他的教诲与鞭策将激励我在科学和教育的道路上励精图治,开拓创新。

我要以最诚挚的心意感谢福建师范大学地理科学学院教授杨玉盛博士,感谢他对我论文的全力支持,为我提供了所有实验的的条件,从实验的思路、经费、人员到实验仪器,感谢他的团队——福建省亚热带资源与环境重点实验的全体同仁们,可以说没有他们,就没有我今天的论文。感谢重点实验室李旭、李春林老师,从实验场地的建设到实验条件的准备给我提供的便利;感谢杨智杰老师,是他教会了我一台台实验仪器的使用,是他在酷暑炎阳天下帮我做一整天一整天的实验,在我有困难的时候总是提供无私的帮助;感谢实验室钱伟老师,在仪器的使用、实验的安排、实验条件的准备上给我提供的帮助;感谢实验室王健老师,在我艰难奋战的日子里给我生活上的各种帮助,鼓励我、为我分担各种困难;感谢实验室谢锦升、陈光水、马红良、郭建芬老师,给我提供的实验思路、实验方法上的指导;感谢实验室曾宏达老师,无数次花时间为我处理电脑的问题;感谢实验室研究生韩志刚,教我使用仪器,一次次帮我做外业实验,一次次仪器出问题时想尽各种办法帮我解决。感谢福建省亚热带资源与环境重点实验的研究生们,在此,我不能一一的列举他们的名字来表达我的感激之情,感谢他们一年多来给我提供的帮助和关心,与他们在一起的日子开心而充实,他们将是我记忆里最美的风景。在此,我还要郑重感谢我的“饭团”同志们,崔纪超,李机密、黄玮、杜紫贤,他们给我单调枯燥的科研生活增添了绚丽的色彩,在我实验最困难最需要的时候,他们总是第一时间放下自己的工作无私的为我做一切,在我心情低落时为我分忧,在我信心不足时给我打气,从生活的点点滴滴中给我帮助、给我鼓励,难忘我们在一起时的欢乐和搞笑,一路笑声洒落在长安山脚下。

我要郑重地感谢我的硕士导师,福建农林大学林学院教授吴承祯博士,我虽然已毕业离开了他,但是在我的心目中好像依然还在他的指导之下,学术上碰到难题了我第一个就想到了找他,而他总是会耐心认真的以他博学的知识为我解答,从我论文的初始思路到实验的实施再到实验数据的分析,每一步都有吴老师精深的思想在里面,我感谢我的恩师。

感谢我在福建师大的舍友,文雅香、柯春婷、贾瑞霞,她们让我毫无条件的住进了她们的宿舍,并在以后的日子里给了我极大的便利和帮助,在我实验紧张的时候帮我做实验,在我心情低落时为我分忧解难,快乐而温馨的宿舍生活总能带给我一份好心情,心情就是生产力,难忘过去的一年多我们一起度过的点点滴滴。

感谢我的师姐,北京师范大学资源学院老师龚吉蕊博士,她总是不厌其烦的听我讲我的论文,讲我的实验,讲我碰到的困难,给我提供解决思路,帮我修改论文;感谢北京师范大学资源学院老师黄永梅博士,和我讨论我的实验思路,给我积极的建议。

感谢北京师范大学资源学院教务科崔维佳老师,感谢他为我们所做的一切,感谢他为我提供的很多便利;感谢和我一起奋战的博士班的朋友们,吴晓旭,张智才,徐蕾,夏虹,林艳,国巧真,吴建寨,陶岩,闫玉春,刘扬等等,感谢他们为我料理学校的各项事务,和我一起分享生活的喜怒忧乐。

我要感谢我的爱人,没有他的帮助、体谅、包容和支持,相信这三年的博士生生活将是很不一样的光景。他在自己完成博士论文的同时,帮我做实验,担负家里的所有事务;在我论文的写作过程中帮我理清思路,寻找突破,耐心的一遍遍听我讲我的论文;在我论文完成后,在我们两人专业背景相差如此之大的情况下帮我认真的修改论文。

最后,谨以此文献给我挚爱的双亲,他们在背后的默默支持是我前进的动力,为了论文和实验,我已经两年多没有见到年过半百的他们了,心中甚感愧疚。

关于日语论文致谢篇二:

时の流れは流れる水のようです、またたく间には大学卒业の时、本当に春梦秋云、离合やすい。大学を卒业论文の完成も终わり、卒业论文の完成も终曲に入った。初めから课题に入って论文の顺调に完成して、ずっとずっと先生の友达、友达、友达から私に亲切な助けをあげて、ここで私の诚実な谢意を受け取って下さい!

本当のことを言うと、本科生として、最初は《周易』を题材として研究を行う场合も、远虑が、最大の难题に《周易》は自分の理解に不足して、神秘的な美しい古代典籍の広大な然どこから始めて、何を考えて、最後には多くの先生が文学院の激励と助けのもとで、最终的に确定され、《周易》の人生哲学试み性の分析の研究から、この论文を执笔の仕事が展开。

本学位论文は私の指导の先生陈松青先生の亲切な心配りと细心の指导の下で完成した。课题の选択から论文の完成、陈先生はずっとすべてを与えた丁宁な指导とたゆまぬ支持、さらに热心に指导して论文のあまり、陈先生はまだ忘れない私たちの文化视野を开拓、文学を感じた素敌な面白さと。特に陈先生が贷してくれた《周易の美学」一本で、私は《周易》の中で不思议バラ色の殿堂は一分の盼望と憧れとは知らない、论文に関しては、私も将来に学术研究の殿堂开けた得难い便利法门。ちなみに、陈先生优しい心を持った、のどかな少言、慕荣利、学生に対して真剣に责任を负って、彼の体には、私たちを感じることで学者の厳密かつ実务、これらのすべての私たちの利益に菲薄で、しかも一生役に立つ无限。结局「経师を交换して、人の师れたい」と、この机会に陈先生は最も心からの感谢!

また、本文は最终的に顺调に完成し、もと文学院の他の先生の助けと切り离せない、彼らは直接関与しない私の论文指导が、オープニング时もを提供してくれました多くの意见を提出した一连の可能性を提案し、彼らは李生龙先生、吴建国先生、王建先生など、ここで彼らに深く感谢!

最後に感谢は、私の両亲は、彼らの育成するだけでなく、私は中国の伝统の文化の兴味を、私は长い人生の旅の中では敬虔な心を帰依して、しかも私は顺调に卒业论文を完成する巨大なサポートと支援を提供しました。未来の日の中で、私はもっと努力して勉强と仕事を裏切らないよう、亲は私の恳ろに期待!私はきっとよく亲孝行や恩返しし!

中文翻译:

时光匆匆如流水,转眼便是大学毕业时节,春梦秋云,聚散真容易。离校日期已日趋临近,毕业论文的的完成也随之进入了尾声。从开始进入课题到论文的顺利完成,一直都离不开老师、同学、朋友给我热情的帮助,在这里请接受我诚挚的谢意!

说心里话,作为一个本科生,在最初试图以《周易》为题材进行研究时,还是颇有顾虑的,最大的难题在于自己对《周易》缺乏足够的了解,面对神秘瑰丽的古代典籍茫茫然不知从何处下手,几经酝酿思索,最后在文学院不少老师的鼓励和帮助下,最终确定对《周易》的人生哲学进行尝试性的分析研究,由此才展开此论文的撰写工作。

本学位论文是在我的指导老师陈松青老师的亲切关怀与细心指导下完成的。从课题的选择到论文的最终完成,陈老师始终都给予了细心的指导和不懈的支持,并且在耐心指导论文之余,陈老师仍不忘拓展我们的文化视野,让我们感受到了文学的美妙与乐趣。特别是陈老师借给我的《周易美学》一书,让我对《周易》中神奇瑰丽的殿堂多了一份盼望与神往,虽然与论文不甚相关,却为我将来步入学术研究的殿堂打开了不可多得的方便法门。值得一提的是,陈老师宅心仁厚,闲静少言,不慕荣利,对学生认真负责,在他的身上,我们可以感受到一个学者的严谨和务实,这些都让我们获益菲浅,并且将终生受用无穷。毕竟“经师易得,人师难求”,希望借此机会向陈老师表示最衷心的感谢!

此外,本文最终得以顺利完成,也是与文学院其他老师的帮助分不开的,虽然他们没有直接参与我的论文指导,但在开题时也给我提供了不少的意见,提出了一系列可行性的建议,他们是李生龙老师,吴建国老师,王建老师等,在此向他们表示深深的感谢!

最后要感谢的是我的.父母,他们不仅培养了我对中国传统文化的浓厚的兴趣,让我在漫长的人生旅途中使心灵有了虔敬的归依,而且也为我能够顺利的完成毕业论文提供了巨大的支持与帮助。在未来的日子里,我会更加努力的学习和工作,不辜负父母对我的殷殷期望!我一定会好好孝敬和报答他们!

关于日语论文致谢篇三:

四月维夏、山が嘉草。初春の绿の城はとっくに太阳の天、満开、活気に満ちた。この美しい季节に、私はコンピュータ敲出た最後に1つの字、心の中は想像の出现を待った喜びは、言いようの丧失。はい、论文の终わりを意味するにつれて、私の生命の中で最も清纯学生时代の终わりにもかかわらず、さまざまに舎てないで、この日はやがて赈わいの喧騒に决裂するのが来る。

三年贫しくてつらい学习环境、収获はもっと豊富な知识だけでなく、もっと重要なのは読书、実践の中で培った考え方や表现能力と広い视野。幸いにこれらの年に出会い、多くの恩师良友のに関わらず、学习の上で、生活の上で私に与えたのも仕事も无私の助けと热心の世话をし、私は様々な面が成长する。恩に感じる情は、言叶では尺度で、最も素朴な言叶で最も崇高な敬意を表します。

恩师の岳晓华先生に感谢。三年来、岳先生は私の勉强と研究は非常に厳しい、そして、心を尽くして指导することを与え、私には、私を受益していた。恩师に私の経験豊富な学问上の造诣、厳格なやり方や、実际の态度、勤勉の精神、これも私の动力と模范歩き続ける。

私の校外导师は翔先生に感谢します。先生は先生にして《広西日报》の指导者、まだよく忙しい中で时间を割いて私达とチャットして、指导する私达の论文と仕事を指导する。先生としては优秀なメディア人の品质と情热が深く感动させて、そのこんこん教诲も私の心に铭记して、私は深く感谢している。

同时にまた感谢の三年间の助けと教育の商ナナナリーを赤先生、黎明洁先生、江建文先生、周莹先生、靖鸣海先生、李勤先生、李庆林先生……私はあなたの体から私は无数に収获、何も得られない、それは私の感谢の気持ちを表します。

私の両亲に感谢して、私の生命を与えて最善を尽くす私に与えたのは教育を受ける机会、卵翼の恩一生忘れることができない;私に感谢の伴侣雷徳坤の両方の精神は物质的に绝大な支持を感谢してくれます;私の同窓の亲友の李静、私に最も困难なときも慰めや励ましを与えてくれるを、私は自信を取り戻す。

まだ多くの人が、おそらく彼らはただ私の生命の中で慌ただしい旅人が、彼らは私の支持と助けには依然として私の记忆の中で深い印象を。ここではいちいち罗列ことはできないが、彼らに、私はずっと感谢して。

最後に、私は「瓦尔登湖」の一言が私の论文として、未来を呑み込んで心の脚注:目をつぶった光を、私たちは闇。私たちが目覚めた时、曙光はやっと有明した。あっ、太阳は粒の启スター。これを覚えとして。

中文翻译:

四月维夏,山有嘉卉。初春的绿城早已艳阳朝天,花满枝头,欣欣向荣。在这个美好的季节里,我在电脑上敲出了最后一个字,心中涌现的不是想象已久的欢欣,却是难以言喻的失落。是的,随着论文的终结,意味着我生命中最纯美的学生时代即将结束,尽管百般不舍,这一天终究会在熙熙攘攘的喧嚣中决绝的来临。

三年寒窗,所收获的不仅仅是愈加丰厚的知识,更重要的是在阅读、实践中所培养的思维方式、表达能力和广阔视野。很庆幸这些年来我遇到了许多恩师益友,无论在学习上、生活上还是工作上都给予了我无私的帮助和热心的照顾,让我在诸多方面都有所成长。感恩之情难以用语言量度,谨以最朴实的话语致以最崇高的敬意。

感谢我的恩师岳晓华老师。三年来,岳老师对我的学习和研究都非常严格,并给予了悉心的指导,使我受益菲浅。从恩师身上我体味到了丰富的学养、严谨的作风、求实的态度,勤奋的精神,这都成为了我不断前行的动力和标杆。

感谢我的校外导师于起翔老师。于老师身为《广西日报》的领导,还常常在百忙之中抽空与我们聊天,指导我们的论文和工作。于老师作为一个优秀传媒人的品质和热情深深的打动了我,其谆谆教诲也铭记于我心,对此我深深感激。

同时还感谢三年来帮助和教育过我的商娜红老师、黎明洁老师、江建文老师、周莹老师、靖鸣老师、李勤老师、李庆林老师……一路走来,从你们的身上我收获无数,却无以回报,谨此一并表达我的谢意。

还要感谢我的父母,给予我生命并竭尽全力给予了我接受教育的机会,养育之恩没齿难忘;感谢我的伴侣雷德坤,无论在精神还是在物质上都给予我莫大的支持;感谢我的同窗好友李静,在我最困难的时候总能给予我安慰和鼓励,让我重拾信心。

还有许多人,也许他们只是我生命中匆匆的过客,但他们对我的支持和帮助依然在我记忆中留底了深刻的印象。在此无法一一罗列,但对他们,我始终心怀感激。

最后,我以《瓦尔登湖》里的一句话结束我的论文,并以此作为未来乘风破浪的心灵脚注:使我们视而不见的光亮,对于我们就是黑暗。但我们清醒时,曙光才会破晓。来日方长,太阳只是颗启明星。以此为记。

日语学术论文

日语论文 和 中文的论文一样 、、先行研究就是指 在你之前 你所研究的领域 都取得了哪些成果 、、当然 必须是你自己看过的 、、然后自己总结一下 、、或者说你所看的 对你写论文有指导性帮助的 一些 文章 啦、、论文 啦、、期刊 文献之类 的 、、通过先行研究也可以看出 你所写的论文的 创新点 在哪里 、、大概就是这样 、、个人意见 、、仅供参考 哦、、

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日本文学的发展历史没有中国文学那么久远,在思想上的认识也不是像西方那样前卫。下面是我为大家整理的浅谈日本文学论文开题 报告 ,供大家参考。

《 20世纪日本中国现代文学研究的比较视野 》

摘要:在日本真正具有学术意义和比较视角的中国现代文学研究始于竹内好为代表的中国文学研究会的同人。继竹内好之后,关于中日现代文学关系的研究逐渐增加起来,特别是从20世纪50年代开始越来越多的研究 文章 涉及这一论题,进入八九十年代这一研究取得了长足进展。但是,真正具有一定理论建树和思想深度的研究并不多见。而相比之下,伊藤虎丸的研究以其宏阔的思维视界和独到的理论深度表现出不同的个性特征。

关键词:20世纪日本;中日现代文学研究;比较视野

中图分类号:I0-03文献标志码:A 文章编号:1002-2589(2011)24-0116-02

中国与日本自古以来特殊的 文化 关系和进入20世纪二三十年代后紧张的民族矛盾,使日本人在打量现代中国和中国文学时,就特别关注中日之间的文化、文学关系,比较早的像井东宪的《中华民国的新文艺——与日本文艺的关系》(《都新闻》,)、泽村幸夫的《支那小说家的日本女性观——从张资平的作品谈起》(《东洋》34—)、中村光夫《鲁迅与二叶亭》(《文艺》,,收入《文艺读本·鲁迅》)、山东赋夫在《读卖新闻》(1936年10月22—25日)上发表的《鲁迅与我国文坛》等都显示了关注中国和日本文学关系的新视角。不过,在日本真正具有学术意义和比较视角的中国现代文学研究无疑是始于竹内好为代表的中国文学研究会的同人。

纵观竹内好的鲁迅和中国现代文学研究,始终内含着比较的视角。他从鲁迅那里,竹内好找到了自我反省和批判的契机,并由此展开对亚洲的近代化问题的思考。他说:“我看到,鲁迅以身相拼隐忍着我所感到的恐惧。更准确地说,从鲁迅的抵抗中,我得到了理解自己那种心情的线索。从此,我开始了对抵抗的思考。如果有人问我抵抗是什么,我只能回答说,就是鲁迅所拥有的那种东西。并且,那种东西在日本是不存在的,或者即使存在也很少。”也正是“从这一基本判断入手”,竹内“形成了对日本的近代与中国的近代的比较性思考”。[1]他的目的并不是停留在鲁迅和中国现代文学本身,而是以此为“镜子”,系统地对鲁迅所代表的中国现代文学进行分析,同时解剖与中国同属一个文化范畴的日本民族的文学及思想性,转而对日本的近代主义无情地加以鞭挞和批判。以此思想为基点,构筑了他的独特的思想体系,并以这一发展模式和价值取向从事其研究活动。比如竹内好强调鲁迅以文学启蒙国民精神的思想,肯定他通过“抵抗”,主体性地接受西方先进的思想与文化的“拿来主义”,据之以批判缺乏“抵抗”的“转向型”的日本近代化,实质上是把鲁迅研究纳入日本现实社会的批判之中,以鲁迅为媒介或参照展开自我反省与批判。对于他来说,亚洲,特别是中国的近代化亦即中国革命,使得对于近代日本进行批判成为可能。在他那里,亚洲首先就是中国。竹内经常说中国通过彻底否定传统而再生于现代,也就是通过“回心”而创造出新的自我。在这一意义上,竹内好得出了中国走的是不同于欧洲的近代化之路的结论。并主张通过现代中国这个媒介实现自我否定,这就是鲁迅所说的那种窃得别人的火烧自己的肉的行为,以促成新的文化自我形成。所以,丸山升认为,竹内好的中国论,比起论述中国本身来更倾向于论述和批评日本、日本文化、社会的“近代主义”。他指出:鲁迅之于竹内好,是“体现实现了与日本‘近代’不同性质近代中国之特征的文学家、思想家,他自身便是对日本近代的批判和镜子。竹内塑造的这种鲁迅像,之所以在战后不久的日本具有巨大的影响力,便是因为很多日本人开始回顾给日本带来那场战争的‘近代’究竟是什么,认真思考未能阻止那场战争的一方弱点是什么;而反过来,则对经过那场战争而作为新中国再生的中国抱有惊诧和敬意。竹内的鲁迅像正是抓住了这些日本人的心。”[2]

继竹内好之后,关于中日现代文学关系的研究逐渐增加起来。特别是从20世纪50年代开始越来越多的研究文章涉及这一论题,如武田泰淳的《中国小说与日本小说》(《文学》,第18卷10期,1950年10月),冈崎秀夫《中国作家与日本:关于郁达夫》(《文学》,第21卷9期,1953年8月)、丸山升的《鲁迅与厨川白村》(《鲁迅研究》19期,1957年12月)等。到了70年代上述论题得到了进一步拓展和细化,如今村与志雄的《鲁迅与日本文学》(《鲁迅与传统》日本劲 草书 房,1967年)、斋藤敏雄的《福本主义对李初梨的影响》(《野草》第19期,1975年6月)、小泉让《鲁迅和内山完造》(讲谈社,1979年)等。这些文章和论著都注意到了中国现代作家与日本及日本文学的关系问题,但是,基本上还停留在现象的描述和事实的求证上,像今村与志雄《鲁迅与日本文学》,直接把鲁迅与日本文学联系在一起,由鲁迅的留日经历来推断鲁迅与日本文学的关系。他认为,文学家鲁迅的形成,受到过日本近代文化的影响,也是顺理成章的。但是,他借助从1906年秋季以后就和鲁迅同在日本 留学 ,起居相守,又同是悉心文学的胞弟周作人在鲁迅去世后写的回忆,来证明鲁迅在漱石以外,对于日本文学并无兴趣。但事实上,鲁迅虽然没有对日本文学表示关心,但是,并不意味着鲁迅没有选择日本文学作为思想启蒙和文化批判的手段与工具。鲁迅一生翻译了相当一部分日本作品,据统计大约有六十五篇之多,像武者小路实笃的《一个青年的梦》、有岛武郎的《与幼小者》、夏目漱石的《挂幅》等。然而关于这一点,并没有引起今村与志雄的关注。

进入20世纪八九十年代这一研究取得了长足进展,不仅数量多,而且探讨的问题更加广泛,但是,真正具有一定理论建树和思想深度的研究并不多见。这个时期的研究视野从以下的文章题目中可以显示出来。像冈田英弘的《爱日本的中国人——陶晶孙的生涯和郭沫若》(《中央公论》95卷15期,1980年12月)、福田范正的《周扬和日本普罗文学运动》(《野草》第40期,1987年9月)、新谷秀明的《巴金和石川三四郎》(《野草》第54期,1994年8月)、小谷一郎的《日中近代文学交流史中的田汉—田汉和同时代日本作家的往来》(《中国文化》第55期,1997年)等。除了上述的论文外,1991年日本东方书店出版了由山田敬三和吕元明编著的《十五年战争与文学——日中近代文学的比较研究》,收辑了中日两国学者研究成果,从不同角度探讨了中日战争期间的中日文坛、在华反战文学、沦陷区文学和抗战文学,以及中日文学交流等,显示出强烈的“比较”意识和全面揭示中日现代文学关系的企图。像冈野辰之的《中国现代作家与日本文学》具有一定的代表性。它从和歌、俳句、私小说、文艺科学论和新村运动等几个方面,意欲全面地描述中国现代作家与日本文学的关系。然而,它所作的概述显得过于浅显和简单,并未能将中国现代作家与日本文学的复杂而矛盾的关系深刻地揭示出来。而相比之下,伊藤虎丸的研究以其宏阔的思维视界和独到的理论深度表现出与上述研究不同的个性特征。

伊藤虎丸是日本战败后,经历了民族的历史性深刻反省思潮的洗礼,并在这一思潮最主要的代表人物之一竹内好的深刻影响下,走上了中国现代文学研究之路。伊藤虎丸的研究有一个突出特点,就是注重中日现代文学关系研究,无论是鲁迅研究,还是创造社研究,他都将他们与日本文学联系起来展开思考,从而构成了他的比较视角。诸如《早期鲁迅对尼采的理解与明治文学》(1979年)、《鲁迅与日本人》(1983年)、《在“脱亚论”与“亚洲主义”的中间——日中近代比较文化论序言》(1994年)等,这些论著主要体现了两个特点。

第一,视野宏阔、思想深刻。伊藤虎丸注重在大的历史背景下,以中国现代文学为媒介思考日本近代化和民族命运,就是孙玉石所说的“大文化比较的视角”。孙玉石指出:伊藤“他习惯于从大的历史背景,从整个亚洲国家民族命运的视野,来思考中国现代文学所可能提供的历史的启示”[3]。在他的《鲁迅与终末论》、《鲁迅与日本人》等书中,在他的许多学术论文中,都在大文化比较的视角上,阐发了自己关于日本近代民族命运的思考。伊藤虎丸强调了采取比较的 方法 对于认识各民族的“文化”的意义,他说:“各个民族都有这样的‘文化’。它是只有用‘比较’的方法才能认识到的”[4]。其内在包涵着竹内好的“比较性思考”的精神,不过,相对而言,竹内主要把鲁迅和中国作为内在的否定性的“精神”存在或参照坐标,当然这也是伊藤虎丸的思想基点和最终归宿,但他主要是在同时代的文化选择差异性的思想史的意义上使用了比较的方法。而且,他突破了竹内好否定鲁迅与日本文学关系的论断,在日本明治和大正时期的思想语境中和文化空间里考察鲁迅、创造社同人与日本文学以及西方文化的复杂关系。

第二,方法独特、角度新巧。与上述特点紧密相连,不是一对一地具体考证中日作家或中日文学作品间的相互影响关系或进行平行研究,而是将鲁迅及创造社等留日作家纳入日本近代思想史的语境中,考察和梳理留日作家与西方文化及日本文学关系。一方面从日本思想界变化的历史轨迹中,在与日本的同时代关系中考察和把握鲁迅和创造社作家与日本文学的精神联系,比如考察鲁迅对尼采思想的接受与日本在接受上的差异;在民族主义问题上,把鲁迅与石川啄木、斋藤野人、内村鉴三等人进行同时代性思考;在科学主义方面,将鲁迅与福泽谕吉展开同时代性探讨。另一方面对非同时代的鲁迅和创造社进行“非同时性”的思考,比较和检视处在明治和大正不同时期的中国留日作家与日本文学的精神联系和他们之间的差异。这种在复杂的语境中的“同时代性”和“非同时代性”的多重比较,使日中文学关系的研究充满了深刻的思想张力。

参考文献:

[1][日]竹内好著.李冬木等译.近代的超克[M].北京:生活·读书·新知三联书店,2005:196.

[2][日]丸山升.鲁迅、革命、历史[M].王俊文,译.北京:北京大学出版社,2005:346-347.

[3][日]伊藤虎丸.鲁迅、创造社与日本文学·序[M].孙猛等,译.北京:北京大学出版社,2005:4.

[4][日]伊藤虎丸.鲁迅、创造社与日本文学[M].孙猛等,译.北京:北京大学出版社,2005:26.

《 日本浪漫主义文学思潮 》

摘 要:浪漫主义文学思潮是18世纪末到19世纪前半期,以英国、法国、德国为中心在欧洲各地而兴起的一股革新思潮。这是欧洲资产阶级企图摆脱封建秩序和封建统治的运动在文学上的具体体现。在其影响之下,日本的浪漫主义文学也在约一个世纪之后兴起了。日本的浪漫主义文学思潮虽不像欧洲浪漫主义那般声势浩大,但也对日本文坛以及日本文学史产生了重大影响。

关键词:日本浪漫主义 背景 理论 作家 评价

欧洲浪漫主义文学思潮产生于18世纪末的英德两国,继而影响法国,席卷欧洲大陆。而这一时期的日本,由于资本主义得到了迅速发展,资产阶级迫切要求彻底摆脱封建主义的束缚。另外受西方文明刺激的影响,人们的自我意识觉醒,开始追求自我确立与自我解放。一批青年作家开始追求与以往的文学所不同的创作风格,使明治时期日本浪漫主义文学一度在日本文坛上占据半壁江山。

一、时代背景

明治维新之后,日本走上了发展资本主义的道路,资产阶级改革运动取得成功,日本社会极力要求摆脱封建主义的束缚。另外在西方浪漫主义和文化的刺激影响之下,日本人开始超越理性,注重关心自己的内心和情感,促进了自我意识的觉醒。于是自由且大胆地表达感情的感想、诗歌、评论等一些文体占据了日本文坛的半壁江山,在这种政治文化背景之下浪漫主义文学在日本也登上了历史舞台。

二、 理论表现

日本浪漫主义文学思潮深受西方浪漫主义的影响,对于人的崇拜代替了对于神的崇拜,开始重视人的力量,将人处于整个社会文化的中心地位, 宣扬人格的平等和自由、主张恢复人性、尊重人权、张扬人性爱。但是, 这种思想的变革, 与根深蒂固的封建保守势力发生激烈的冲突,文化上的开放与保守、民主与专制、 自由与禁锢两种思想的对立大大加剧。正是这种矛盾思想的激烈碰撞才使日本的浪漫主义文学拥有自己独特的理论。即:主张情感至上,追求人的真情实感的自然流露,追求个人自由,推崇人的内部生命。

三、代表作家及作品

根据时间先后可将日本的浪漫主义文学分为3个时期: 第一期是以北村透谷、 岛崎藤村的《文学界》为中心; 第二期是以与谢野铁干、与谢野晶子、薄田泣堇、蒲原有明、泉镜花等人的《明星》为阵地;第三期是北原白秋、吉井勇、永井荷风、谷崎润一郎等人的唯美主义、颓废文学。①

森鸥外是开日本浪漫主义文学之先河的先觉者,他的代表作《舞姬》、《泡沫记》、《信使》构成了他留德的青春爱恋的纪念三部曲。

(一)第一期代表作家及作品

如果说森鸥外开日本浪漫主义文学之先河的话,那么真正成为浪漫主义主导力量的是于1893年1月创刊的《文学界》杂志及其周围的年轻一代。这一时期的典型代表是北村透谷的评论、?口一叶的小说和岛崎藤村的诗歌。

北村透谷主要作品是长诗《楚囚之诗》和《蓬莱曲》等。但是北村透谷更加重要的史学价值体现于文化性评论方面,从1892年起陆续发表《厌世诗家和女性》、《何谓干预人生》、《内部生命论》等文章,其中最为著名的是《厌世诗家与女性》。这是他通过自己的实际感受和体验以伦理化的形式表达出来的结果,文中大胆地提出了“ 恋爱乃人生之妙药”这一具有划时代精神的主张。

岛崎藤村的《嫩菜集》等诗作,打碎了固有形式的桎梏,巧妙地把西方浪漫主义诗歌的表现手法和日本民族的传统表现形式糅合在一起;其内容摆脱了封建思想道德的束缚,热烈追求个性的解放和美好的生活,充满了青春的气息和奔放的浪漫情绪,开拓了前期浪漫主义文学。②

?口一叶是一位慧星一般的才女作家,一叶虽非《文学界》同人作家,却有许多传之后世的名作刊于《文学界》。其代表作品有《大年夜》、《青梅竹马》等。(二)第二期代表作家及作品

这个时期最伟大的天才是与谢野铁干的妻子与谢野晶子。她出版的第一部短歌集《乱发》是一部大胆而直率倾吐感观性与歌颂奔放的本能和主情的爱欲的诗集。反映了诗人对因袭封建旧道德的一种反抗,让人们感受到她是一位与众不同的新时代女性。

在文学史上,泉镜花的小说代表了这一时期的浪漫主义。在他的一生中大约创作了300多篇小说,都具有独特的浪漫主义风格。非常著名的代表作有《高野圣僧》、《照叶狂言》、《妇系图》和《和歌灯》等一系列优秀作品。

这个时期不得不提到的一个人物就是高山樗牛,他是一位著名且受人欢迎的评论家。他的主要作品有《论美的生活》、《 日本民族的特性和文学美术》、《爱情剧是不是梦幻剧》等等。其中,在同时代文学评论中最有影响的是《论美的生活》,从“生命重于身体、身体重于衣物”的立场出发,讽刺了那些汲汲于金钱、权势的人,“以人造之物制自然之物” 的时代弊端,重视“尔等内心的王国”,鼓励人们去大胆追求内心生活的幸福。

(三)第三期新浪漫主义作家作品

新浪漫主义以“牧羊神会”为主流,《昴星》、《屋上庭园》、《三田文学》、《新思潮》等是其主流文学。主要代表人物有北原白秋、木下?太郎、吉井勇、长田秀雄等“牧羊神会”的中心成员,高村光太郎、谷崎润一郎、永井荷风等人在文学思想上与之共鸣。这些作家摆脱了此前浪漫主义的影响,迎合唯美主义的思潮,用华丽的笔墨和丰富的词汇,凭感觉创作出了充满异国情调和肉欲主义的作品。

三、思潮评价

日本浪漫主义虽不像欧洲浪漫主义那般声势浩大,但也在日本产生了重要影响。它一度占据日本文坛的半壁江山,对日本人的思想、日本文学、文化、艺术都做出了不可磨灭的贡献。

首先,它主张恢复人性和尊重人权,将“人”置于整个社会文化的中心地位,并自始至终和封建主义作着斗争,促进了日本社会民众自我意识的觉醒,有利于资本主义的发展。其次,在文学创作上主张把人性和自我尊严作为文学的源泉或出发点,打破了古典主义的清规戒律,是继启蒙运动以来又一次在文学上的解放。再次,日本浪漫主义将日本古典的浪漫主义与西欧浪漫主义加以吸收发展,从而在构建日本的近代文化方面具有深远而伟大的意义。最后,浪漫主义主张个人的自由,赞美恋爱,使人们大胆地追求独特而自由的艺术创作,超越自然,解放艺术,因此在艺术史上都具有深远影响。

但是,日本的浪漫主义文学也具有局限性。表现在三个方面:

(一)软弱性和妥协性

它从一开始发展就面临着重重阻碍,自始至终都不如欧洲浪漫主义那般声势浩大。另一方面,明治维新的不彻底性造成了封建思想在市民社会中的长期残留,极大地阻碍了浪漫主义追求自由主义和个人主义的步伐。

(二)创作主张具有不确定性

日本浪漫主义从一开始就是在与拟古典主义和自然主义斗争中发展起来的,没有自身独立的发展时期。另外,浪漫主义作家内部围绕着文学创作的使命、文学的社会责任、文学的国民性、文学的民族性、文学与国家、文学与个人等问题进行论争,创作主张十分不确定。

(三)理论缺乏系统性

北村透谷、岛崎藤村、与谢野晶子、高山樗牛等人的创作虽然使浪漫主义的主要代表人物具有了开创新文学时代的个性鲜明的批评家、文学思想家的桂冠, 但却没有形成一个观点明确、前后一致、系统而又有说服力的文学理论体系。

注释

① 肖霞.日本浪漫主义文学的发展及特征[J].外国文学,2003(7).

② 叶渭渠,唐月梅.日本文学简史[M].上海:上海外语 教育 出版社,2006:149.

参考文献

[1] 叶渭渠,唐月梅.日本文学简史[M].上海:上海外语教育出版社,2006:149.

[2] 林洪亮.浪漫主义文学的产生及其代表作家[A]//外国历史大事集?近代部分(第三分册)[M].重庆:重庆出版社,1985.

[3] 王庆生.文艺创作知识辞典[M].武汉:长江文艺出版社,1987.

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日本文化与日语基础学术论文

日本 文化 又是历代日本人在湿润的环境中以顽强的忍耐力和精神,从事水稻栽培所形成的对植物有着特别感情的海洋文化。下文是我为大家整理的关于日本文化 毕业 论文优秀 范文 的内容,欢迎大家阅读参考!

浅谈日本语言文化

【摘要】语言是文化的载体,日本语言文化渊源深厚,本文主要介绍了日本语言文化中的禁忌和委婉表达,通过对这两种形式的简要阐述,来强调人们在跨文化交际中,理解和领悟日本语言文化,掌握日本民族习俗。

【关键词】日本语言语言禁忌委婉表达语言文化

前言:

语言是社会生活约定俗成,逐渐沉积下来的产物。不同语言衬托出不同的语言文化,语言的产生和发展变化离不开本国民族与自然地理、风土人情以及社会文化的内在联系。掌握一种语言,就需要学习使用这种语言的民族习惯和历史文化背景,才能学以致用。日本语言学家森田良行曾经指出,研究一门语言,其文化背景是不能脱离的,否则很难掌握这种语言的精髓。所以,在日本语言的教学过程中,强化语言文化 教育 是非常重要的。日本语言是高级语言,日本语言的基本特征是具有隐含性、暧昧性以及非逻辑性表达方式,另外,日本语言的发展离不开其文化因素,为研究日本语言文化,必须了解日本语言的独有风格和日本语言的文化思想源泉。

1.日常生活中日本语言禁忌表现

日本语言中的称呼禁忌

日本有句 谚语 叫做“名示体”。在古代日本人认为,一个人的灵魂附在自己的名字上,造成各自的人格有所差异,如果说出主人的名字,其灵魂就会脱离人体扩散到大气中,被恶魔带走,也就是说,一个人的名字与自身安全、身体健康以及命运有着很大的联系。因此,为了保护所敬畏的人,人们不会直接称呼别人的名字。与此同时,古代日本人为了保护自己,一生中会出现很多次改名现象,从出生、成人到死分别都有幼名、成人名以及戒名。

日本语言的称呼禁忌一般表现在下级对上级、晚辈对长辈的称谓,由于日本原始社会对神秘力量的崇拜和敬畏,下级和晚辈不能直呼上级和长辈的名讳。在日本,明仁是日本天皇的名字,天皇是至高无上的、不能毁灭的,日本民族不能直呼天皇的名称。在日本当代社会中,也听不到“明仁”两字。日本人的这种语言禁忌始终存在于人们对天皇的尊重当中,甚至还存在于日本普通人民的日常生活中。时至今日,在日本,年长的女性,也不能直呼其丈夫的名字。他们往往去掉姓氏互相称呼。

日本生活中的禁忌

在古代,人们不知道幼儿是怎么生育的,因此,人们潜移默化的认为,这是神的力量在起作用,日本人称其为“产神”,他们认为产神具有保护婴儿与伤害婴儿的两方面性质。正因为当事科学不发达,婴儿出生后死亡率高,因此,在婴儿出生的过程中,不仅在日本,在中国也存在很多禁忌。日本人在产妇面前忌讳说有关“死”的字眼,中国人也是。在日本,也有为老人祝寿的风俗,他们也不希望将老人与“风烛残年”、“体弱”、“年迈”等词语联系起来,因此,这些词语就成为祝寿的禁忌语言。在中国,年轻人人给老人祝寿时,也很忌讳说“死”、“没了”、“完了”等词语,因为“钟”与“终”是谐音,因此给老人送礼物时禁忌送钟。

2.日本语言中的委婉表达

委婉表达语言的由来

对于任何一种语言,委婉表达都存在于其中。英语中“euphemism(委婉表达)”意思是“好听的一句话”,源于希腊语言文化。在中国,“委婉表达”的意思是指“声音婉转而动听,态度真诚”的意思。日语语言中“委婉表达”的意思是“将一种语言婉转含蓄地表达出来”。在日本人之间的日常会话以及日本语言文学作品中,我们发现,委婉表达在日本语言中非常多。在日本,人们为了拒绝别人的邀请或者建议,又不想违背他人的意图或者好意,日本人不会公然与别人发生碰撞,他们往往不直接拒绝,而是用最间接的 方法 ,拐弯抹角的进行委婉而含蓄的拒绝他人。在日本,存在着各种各样的拒绝语言,在这里也就不一一列举了。

委婉表达产生的社会文化环境

日本民族重视集体协调

在日本,委婉表达一词离不开他们长期所处的社会自然环境以及文化形态。日本人重视集体协调,他们往往会站在他人的立场思考问题、解决问题。这完全是由于他们所处自然地理与生产方式决定的。日本是一个被大海环绕的国家,许多日本研究者将这种地理因素叫做“自然地理的锁国”。日本政府曾经公布锁国令,除中国和朝鲜以外,使日本在200多年的历史中没有与其他国家进行交往。17世纪到8世纪末,日本与外部世界长期隔绝,使日本内部形成一种统一的民族风格。日本是一个以农耕、渔业为主的国家。

而且,日本人吃的大米,产于占国土总面积70%的山地,为使处在地势较高的农户与处于地势较低处的农户之间不产生用水问题上的矛盾,日本政府规定,在山地 种植 大米必须拥有集体观念。这种生产理念使得日本人民养成注重集体利益和站在他们立场上思考问题解决问题的方式。由此可以看出,古代的日本民族是一个和谐的民族。

日本民族重视以和为贵的思想观念

日本人很重视“以和为贵”的传统思想观念,为寻求集体利益的内部协调,日本民族与外界始终保持着和谐友好的关系,他们更加注重委婉表达,措辞含蓄。日本政府在宪法中制定了“以和为贵”的道德祖训。“村”是日本人民生活和生产中的一个小范围群体。如果有人脱离这个组织,就要受到其他人的耻笑;严重者将要受到一种制裁。所以,在日常工作和生活中,日本人很重视周围人的意见和建议,他人的观念是非常重要的,日本人往往不以自己的思想观念来看待问题。

日本语言的具体表现就是委婉表达。这种表达方式反映了社会与语言的内在联系,在日本语言文化交际中,将委婉表达使用得当,在不违背别人意愿的基础上又满足自己的观念,已经成为日本语言的一种趋势。所以,在日本社会生活中,委婉表达的探讨以及使用有助于培养跨文化交际人才,有助于日本语言教学和研究。

结论:

日本民族的集体意识已经成为日本社会生活的共同心理,日本人的优良 传统文化 和思想渊源成就了日本独具一格的语言体系。然而,伴随着日本现代社会环境的变化又出现了新的语言文化,但是,在日本,传统的语言文化价值观以及由于注重集体意识而来的语言特色,无论是现在还是将来,都对日本语言起着指导作用,永远不会被 其它 文化影响所磨灭。

参考文献:

[1]苑崇利.对日语口语表述文化特征的考察[J].日语学习与研究,2003.

[2]吴侃.日本语语法教程[M].上海:同济大学出版社,2000.

[3]刘芳.委婉表达在日本语言文化的体现[J].辽宁工程技术大学学报(社会科学版),2004.

[4]崔慕洁.关于构建日本语言文化体系的研究[M].佛山科学技术学院学报(社会科学版),2004.

论茶道文化对日本社会的影响

1.日本茶道的历史

日本茶道的起源和形成

茶在中国已有5000多年的历史,相传“尝百草”的神农氏偶然间发现了茶具有解毒功能,从而把茶用作解毒的药物。780年陆羽的《茶经》问世,促进了中国茶文化的形成与发展。日本遣唐僧侣最澄、空海、永忠把唐朝的茶文化带回日本,形成了以嵯峨天皇、贵族、高级僧侣为主体的“弘仁茶风”。据史料记载,日本高僧最澄把中国的茶籽带回日本,种在日吉神社,这里成为日本最古老的茶园。《日本后记》弘仁6年(815年)记载了僧侣永忠为嵯峨天皇煎茶献茶。不过此时日本的 饮茶 法还只是效仿唐代的饼茶煮饮法。

镰仓时代,曾来南宋学习临济宗的僧侣荣西仿照《茶经》撰写了日本第一部茶书——《吃茶养身记》。书中主要讲述了茶的药用功效,并把当时宋朝的末茶饮茶法——日本茶道的抹茶饮法传入日本。中国的寺院饮茶茶礼在日本寺院盛行,日本茶道的茶礼就是在此基础上演变发展而来的。

镰仓时代末期到室町时代中期,从中国宋朝传入的游戏性的“斗茶”成为日本茶文化的主流。室町时代第八代将军足利义政为中心的东山文化,是日本中世文化的代表,诞生了以鉴赏唐物为主要目的的饮茶活动——书院茶道。

被称为茶道开山祖师的村田珠光将禅的思想引入到了茶道中,开创了朴素自然的草庵茶风。珠光通过禅与茶道的结合,把饮茶由一种饮食娱乐形式升华为一种艺术、一种哲学、一种宗教。武野绍鸥将日本的歌道理论与茶道相结合,补充和完善了珠光的茶道思想,推进了茶道的民族化和规范化。日本茶道的集大成者——千利休继承了珠光、绍鸥的茶道思想,进一步完善深化了草庵茶。千利休精减了点茶的程序,不使用端庄华丽的中国茶碗,而使用厚重朴素的高丽茶碗和日本乐窑茶碗。他还特别规定了茶花、怀石料理的法则及作为茶人的资格,创造了茶道中日本特色美的完整的艺术体系。至此草庵茶道,也即日本茶道正式形成。

日本茶道的现状

1592年千利休去世后,他的子孙和弟子们继承了他的茶道,至今大约形成20多个流派。千利休的子孙分为表千家、里千家、武者小路千家三个流派,现在日本流行的茶道主要指这三个流派。其他还有二十几个流派,主要有:远州流、织部流、三斋流、薮内流、宗遍流、庸轩流等。这些流派虽然有各自的茶道风格,但都以千利休的茶思想为指导思想。茶道的多样化促进了茶道的发展,茶道迅速普及到了社会的各个阶层。自明治维新以后,女性也加入到茶道活动中来,茶道成为许多女性出嫁前的必修课之一。

如今,茶道已是日本人生活中不可缺少的部分,被视为一种修身养性、提高文化素养和进行社交的手段。茶道作为日本民族文化的象征,已完全融入到日本人的日常生活中,对其生活乃至整个日本社会都产生了重要的影响。

2.茶道对日本社会的影响

茶道倡导了日本人的精神文化理念

《南方録》中记载了利休的话:草庵茶道最重要的目的是领悟佛法,修行得道。茶道的本意在于禅,倡导人们通过茶事活动修炼身心,升华思想境界。“和敬清寂”是茶道的根本精神,成为400多年来日本茶人的行为准则。

按照久松真一的观点,“和敬清寂”的理念不应只局限于人与人之间的关系,而必须是对“事物人境”而言的。“事物人境”涵盖整个茶道内容,包括茶道中的每一个方面,每一个细节。具体说来,“事”指点茶、喝茶、清扫、茶室的布置等诸事情;“物”指茶碗、茶勺、茶罐、茶刷等茶道具;“人”指主人、客人;“境”指茶庭、茶室等环境。只有在茶道中贯彻对“事物人境”的“和敬清寂”,才是真正的茶道。理解了这点,才会体会出复杂茶礼的奥妙,体会到日本人所推崇的审美观。点茶的手法、茶道具摆放的位置、在茶室中行走的路线和步伐、饮茶的步骤等,这些环节是茶人在反复实践中 总结 出来的最稳妥、最合理的路径和程式。当人们信手而为就符合茶道礼法时,才能真正领悟茶道“和敬清寂”的精神,最终达到“茶禅一味”的境界。

茶道把待客、吃饭、喝茶等日常的生活行为提炼成极具传统和形式美的艺术高度。正如桑田忠亲在《茶道的历史》前言中所说,茶道已成为表现日本人日常文化生活的规范和理想。它完善了日本人的精神文化生活,促进了日本国民文化水平的提高。

茶道形成了日本传统建筑风格

茶道建筑由茶室和茶庭两大部分组成,茶室和茶庭是供人举行茶事的场所。茶道建筑是日本传统建筑的代表,对后世日本建筑的发展有深远的影响。

日本茶道的茶室因其外形与农家草庵相似,又被称为“草庵茶室”。茶室使用竹、木、草、石等材料建造而成,秸秆屋顶、砂土掺稻秸涂抹的墙壁、不剥树皮的原木做的柱子,尽显其古朴、自然的风格。茶室的标准面积一般为四张半榻榻米。茶室虽小,但每一个细节的设置,每一种材料的选择,茶人们都力求独具匠心。茶室的小入口、壁龛、地炉、小天窗等都是茶道大师们几百年来智慧的结晶。利休的茶室、织布的茶室、远州的茶室等各具特色,这些茶室所体现和追求的美感,对江户时代的武士阶层和上层市民阶层的房屋建筑风格有很大影响。人们把这种代表日本传统建筑风格的建筑称之为“数寄屋建筑”,在世界建筑史上占有一席之地。

茶庭,顾名思义是指与茶室相配的庭园。禅宗中把领悟的境地称为“ 白露 地”,受此影响日本茶道中称茶庭为“露地”。茶庭的面积不大,大多在100~200平方米,分为外露地和内露地,内外露地以中门分隔开来。客人先在外露地静心安神,而后经中门进入内露地,也就进入了忘俗的境界。在茶室门口首先要洗手和漱口,就是要人们洗涤心灵,除去杂念的意思。茶庭中设置等待室、厕所(雪隐)、尘穴、石制洗手钵、石灯笼等。茶庭中的小路,大多以脚踏石和碎石铺就。庭中除去一条条迂回曲折的小路,均被常绿树木所覆盖,营造出“山中草庵”的风情。

脚踏石、石制洗手钵、石灯笼已成为现代日本庭园不可缺少的组成部分。不论是日本庭园还是居家院落,都受到了茶庭的影响,历经时间锤炼的茶庭是当代日本庭园建筑的代表。

茶道促进了日本陶艺制造业的繁荣

茶碗是茶道具中品种最多、最重要的用具。在茶道兴起的初期,使用的几乎都是来自中国的茶碗,其中端庄华丽的天目茶碗最受追捧。随着草庵茶的确立,随着草庵茶道的确立,茶风趋向朴拙自然,外形粗糙、色彩朴素的高丽茶碗开始大行其道。为了更好地表现草庵茶道的风格,千利休与陶工长次郎一起设计制造了乐窑茶碗。优雅厚重的乐窑茶碗是草庵茶中规格最高的茶碗,是日本茶陶的代表。

江户时期,茶道的普及使日本陶艺技术迅速发展开来。织布窑、远州七窑、仁清窑、志野窑等,日本的民窑遍地开花,并传承至今。茶碗在品类、造型、釉色、装饰艺术等表现手法上的多元化极大地推进了日本陶艺民族化、本土化风格的发展。

日本茶道不仅是点茶、饮茶的过程,而且是包括吃饭在内的招待客人的整个过程。茶道中用到的道具多达上百种,涉及陶艺、漆艺、木艺、竹艺、纸艺等行业。这些行业里的艺术家们都以创作出符合茶道理念的独特作品为最高追求,可以说茶道的影响渗透到了日本的各个工艺制造业。

茶道丰富了日本人的饮食文化

在茶道形成初期,点茶之前吃的饭一般写作“会席”,在《南方録》中开始写作“怀石”(日语中,怀石与会席都读作“kaiseki”)。“怀石”原本指禅僧为了抵御寒冷而塞在怀里的温热石头,喻指简单的饮食。近代以来日本人把茶道中的饭称为“怀石”。

茶怀石的内容最初是由千利休规定的,一般为一汤三菜。菜品简单,但烹饪却极为讲究。选材崇尚应季的天然食材,注重搭配的协调,将茶道精神与饭菜融为一体。考究的器皿,宛如工艺品般的菜肴,每一道菜都给人味觉和视觉上的美好感受。

在江户初期大名和武士的茶道中,茶怀石不再拘泥于简素,变成菜品丰富的豪华料理,成为茶道外也可享用的料理——江户中期,在东京、大阪等地的高级餐馆就出现了“会席料理”(即现在的“怀石料理”)。新鲜的食材、上好的烹饪、精致的器皿、优雅的环境,怀石料理已成为日本传统料理的主流,成为日本高级料理的代表。

3.结语

历经400多年的日本茶道已发展为集宗教、哲学、美学、艺术和建筑设计等为一体的综合艺术,不仅影响了日本国民的精神文化、建筑风格、陶艺制造和饮食文化,还在其生活习惯、服饰、书法甚至文学等领域产生了深远的影响,可以说没有茶道,就没有日本文化史。研究茶道,对于我们了解日本文化、认识日本社会有重要意义。

日本的文化是日本人日常生活习惯和风俗,文化是反映一个国家特殊性的东西,是一个社会综合的缩影。由于历史的原因,日本在姓氏的产生、发展变化,以及人名的起名等方面,都很注重姓名的社会性、现实性。

日本文化方面论文篇1

试论日本姓氏文化现象

摘 要: 姓氏文化是日本文化不可缺少的一部分。

日本人的姓氏产生较中国晚。

由于历史的原因,日本在姓氏的产生、发展变化,以及人名的起名等方面,都很注重姓名的社会性、现实性。

日本虽国土面积小,人口不多,但日本人的姓氏却为数不少、千奇百怪。

日本姓氏从一个侧面反映了日本社会文化、历史、经济、宗教、风俗等重要文化现象。

研究日本姓氏对于日本社会、文化、语言、文字的研究都有重要的意义。

关键词: 日本 姓氏 文化现象

日本人的姓氏产生较中国晚。

由于历史的原因,日本在姓氏的产生、发展变化,以及人名的起名等方面,都很注重姓名的社会性、现实性。

日本虽国土面积小,人口不多,但日本人的姓氏却为数不少、千奇百怪。

日本姓氏从一个侧面反映了日本社会文化、历史、经济、宗教、风俗等重要文化现象。

1.日本人的姓氏起源较中国晚

中国人的姓氏起源

中国人的姓氏起源据说可以追溯至上万年前对风、云、雷的崇拜。

传说中的女娲、伏羲为风姓,神农为雷姓,黄帝有云姓之称,等等。

上古时期,中国人姓和氏是分开的,女子称姓,男子称氏。

姓指的是一个人的血统,只有贵族才有闲空研究或者附会自己的血统。

而氏则代表此人的身份地位。

男人主外,平常使用能代表自己身份地位的氏而不用姓。

姓、氏分开的制度在汉以后就逐渐被人们所遗忘,姓、氏逐渐合流。

夏商周时期,姓的社会职能是代表有共同血缘关系的种族称号,氏则是从姓中派生出来的分支。

商周以前,姓用以区别婚姻,故有同姓、异姓、庶姓之说。

氏用以区别贵贱,贵者有氏,而贫贱者有名无氏。

先秦时期一般老百姓不准有姓氏,如变法的商鞅,本是卫国人,起先被称作卫鞅,后来在秦国变法成功,被封于商郡,从此改名为商鞅。

日本人的姓氏产生

与中国姓氏制度相比,日本的姓氏产生较晚。

受中国汉文化影响,日本也以汉字取名。

公元四世纪中期,大和政权建立(中国南宋中期)后才开始产生姓氏。

氏指的是出身氏族,姓则指的是大和朝廷赐予氏上等贵族的称号,如“臣”、“连”、“造”等。

这种“姓”其实含有种姓的意味,以区别氏族地位的高低,其后出现的赐姓如“藤原”、“橘”、“源”、“平”等严格意义上来说仍是氏而不是姓。

贵族男子正规的称呼必须姓氏叠用,如“藤原朝臣九条兼实”,“藤原”是氏,“朝臣”是姓,“九条”是苗字(苗裔之意),“兼实”是名。

公元四世纪末,大和朝廷统一了日本列岛南部,其政治统治的基础就是氏姓制度。

以大和朝廷的大王(即后来的天皇)为首,掌握着中央政权的贵族与隶属于朝廷的小国国王之间建立了有血缘关系的集团,这些集团被称为“氏”,一个“氏”就是一个贵族世家。

此时的氏并不只限于父系或母系家族,并非自然的社会集团,而是建立朝廷的中央豪族,以独占或世袭官职,借助朝廷对平民进行统治。

氏按照其职务、领地、居住地来命名,称为“氏名”,如“出云氏”、“忌部氏”、“中臣氏”(后来的藤原氏)。

也有氏名来自神名、技艺等。

掌握大和朝廷最高权力的大王家是当时最强大的氏。

后来,大王家对隶属朝廷的许多氏按与自己的亲疏、血缘远近和功劳势力大小分别赐予“姓”(カバネ),这个“姓”不能算是真正的姓,只是表示地位、门第、职务的称号,类似爵位,属世袭,是除了皇亲外的贵族用来区分身份地位的标志。

当时的姓约有30个,其中“相臣”、“君”、“直”等赐给皇族及显要贵族的姓最具势力。

这时的氏表示部分家族血缘关系,姓只表示家族的地位尊卑,姓氏代表贵族的等级。

公元七世纪中期,大和国统一日本列岛南部,开始通过氏姓制度来建立自己的家族统一脉系。

公元645年,大化革新废除世袭称号,实施官位制,此时表示身份地位的姓逐渐失去意义,在贵族社会只称氏而不再称姓,但姓仍是贵族的专利。

随着人口的繁衍,公元九至十世纪(平安时代),大的氏产生出许多分支,出现新的称呼“苗字”。

苗字其实是一个家族从氏族本家分离出去后产生的新的姓氏。

此后氏、姓、苗字逐渐融为一体,统称为苗字。

日语中“苗字”(みょうじ,也写作“名字”)是中文“姓氏”的意思,现代汉语的“名字”则是“名前”(なまえ)。

日语“氏”指的是氏族(氏名),包括“源氏”、“平氏”和“藤原氏”,即古时曾掌握过政权的氏族。

武士阶层抬头以后,武士们的苗字越分越多,越分越杂,逐渐变成现代意义上的姓。

在江户时代,很多商家把商号冠在自己的名前,逐渐演化成现代意义上的姓。

男性贵族姓名包括家名・苗字+通称・あざな+氏(ウヂ)或姓(カバネ)+讳(イミナ),武士或平民的姓名构成则为:家名?苗字+名(相当于武士的讳,平民场合没有避讳一说),如“织田信长”的完整姓名应该为“织田�正忠平朝臣信长”,其中“织田”为家名,“正忠”为通称,“平朝臣”为姓(カバネ),“信长”为讳。

又如“德川家康”的全名叫“德川次郎三郎源朝臣家康”,其中“德川”是家名・苗字,“次郎三郎”是通称,“源”是氏,而“朝臣”是姓(カバネ),“家康”是讳。

直到十九世纪,姓只限于武士、巨商和村里有权势的人。

此时的姓氏代表着贵族的等级,重要官职必须由特定家族中的人来担任,如征夷大将军必须由平、源两族担任,关白必须由五摄家担任。

“摄关家”实际上是藤原氏的五姓,即“近卫家”、“九条家”、“一条家”、“二条家”及“鹰司家”,又称“五摄家”。

“平源藤橘”即平氏、源氏、藤原氏、橘氏,实乃日本当时的四大贵族。

“平”、“源”两家实际上都是天皇宗族的分家,最有名的“清河源氏”就是起源于清河天皇的庶子。

日本在明治维新之前的“幕府时期”,是武士阶层专政的时代,那时只有贵族、士大夫、富豪、巨贾和大地主才有姓氏,而一般庶民在暴政的钳制下有名无姓。

除了“佐藤”、“铃木”、“丰臣”、“北条”、“源氏”等当时赫赫有名的贵族外,其他2700万平民百姓大都是目不识丁。

为了满足征兵、征税、制作户籍等的需要,明治维新初期,日本政府于明治8年(1875年)颁布强制性的《苗字必称令》,做出“凡国民,均可起姓”的决定。

1898年,日本政府制定户籍法,每户的姓这才固定下来,不得任意更改。

可见日本人有姓不过只是一百多年的事。

明治维新以前,日本的一般平民百姓从来就是无姓无名,纵然有名也只是“诨名”,或仅以兄弟排行相称,如“太郎”、“二郎”、“三郎”,“一男”、“二男”、“三男”,等等。

明治以后突然允许一般百姓拥有姓氏的原因有二:首先,日本新政府立志改革,建设“文明开化”的近代国家,宣布“万民平等”以树立日本人的自立精神。

其次,方便户籍管理和激励国民。

2.日本人姓氏透视出的社会文化

日本的姓氏分为两类,即自古就有的和《苗字必称令》颁布后创立的,概括起来主要有繁、杂、怪、奇四大特征。

日本国家虽小,姓氏却为数不少、千奇百怪。

据日本《姓氏的历史和谜》一书介绍,日本有13万余种姓氏,当属世界第一,比一些小国家的总人口还多。

其中“佐藤”、“铃木”、“田中”、“山本”、“渡边”、“高桥”、“小林”、“中村”、“伊藤”、“斋藤”占总人口的10%,有1000多万。

较具代表的姓氏有100个,普通姓氏3600个,其他属稀奇杂姓,如“一井”、“一木”、“一色”、“一尾”、“上下”、“和气”、“左右”、“前后”、“火山”、“热海”、“温泉”、“满身”、“小穴”、“瓶子”、“布袋”、“我孙子”、“早乙女”、“不入斗”、“一二三”、“五鬼肉”、“一尺八寸”等。

“造姓运动”使得日本姓氏丰富而又稀奇

明治8年(公元1875年),日本天皇下诏颁布《苗字必称令》,令全国的庶民在名字上加冠姓氏,并凭姓氏向政府登记申请户籍。

也许是对过去等级制度的嘲笑,日本人对于姓氏的态度发生180度大转弯,姓氏不再是身份地位的象征与保证,出现“造姓运动”。

于是各种各样的怪姓层出不穷。

大部分人取姓氏只能因地制宜、就地取材,因此绝大部分日本农民取姓氏很随意,出现了大量五花八门、荒诞怪异的姓名。

其次,日本人不像中国人那样祖祖辈辈都使用一个相同的父姓,日本人中不用父姓的占有不小比例,其结果是姓氏的数量不断增加。

最后,当时日本人对突如其来要求取名的政府法令无所适从,众多文化不高的平民百姓充分发挥自己的聪明才智,尽一切所感所知所见所闻来为自己命名,上至日月星辰,下至花鸟鱼虫,从职业、住所到自然现象等等都作为自己的姓,因此出现了让人毛骨悚然的姓氏,如“百目鬼”、“九鬼”、“鬼首”、“我妻”、“新妻”、“我孙子市”、“我孙子”、“猪股”、“猪野”、“猪口”、“犬养”、“盐尻”等。

住家周围是稻田的农民就根据“田”的特征姓“田中”、“田边”、“藤田”、“吉田”,或“野中”、“藤野”,等等;家住河边的就姓“河边”、“河本”、“渡边”,或“川上”、“川口”、“川端”、“川崎”,等等;如果住在山脚下,户籍官就会建议他们姓“山本”,如此,“山上”、“山中”、“山下”、“山口”等不一而足;日本人中姓“松下”、“松本”的,其祖上老家的房子肯定是在一棵大松树下;“竹本”、“竹下”、“竹内”、“竹中”、“多木”、“芝木”等也顺此理用来命姓。

从日本人以上姓氏中我们可以看出,他们的祖先大多来自农村;而姓“东条”、“南条”、“北条”、“九条”、“十三条”等的,一看便知他们的祖先可能是城市居民(町人),住在或东或西、或南或北的某条(如九、十三条)街上。

3.日本姓氏主要类型和文化内涵

地名为姓

这一类姓氏在日本的姓氏中最多,现在日本的姓90%来自地名,一般以居住的地理位置为姓。

居住在山上的平民就以山为姓,如住在山口的就姓“山口”,住在山上的就姓“山上”,住在山里的就姓“山内”,另外还有“大山”、“秋山”、“山本”、“小谷”、“冈村”、“松冈”、“川崎”、“宫崎”、“五十岚”等。

住在田中间取姓为“田中”,住在田旁边的就取名为“田边”,此外还有“田泽”、“本田”、“池田”、“武田”、“吉田”、“松田”等。

居住在沼泽地带的人则以“沼泽”为姓,如“大泽”、“宫泽”、“五十泽”等。

从中日简体字的字形差异看日本文化【内容提要】汉字从传入日本到现在,受到日本语言、社会、文化等多种因素的制约,融会为日本文化的重要部分。文章通过对中日简体字的字形比较,揭示了日本为了使汉字能够很好地表现日本文化,在汉字字形整理中不仅兼顾“初形本义”,即所谓“传统字理”,而且更是以民族文化为本位的思想意识,反映了既吸收和借用了中国的汉字文化,又脱离中国文化束缚的、与中国汉字文化相呼应的日本汉字文化的特点和民族心理。中日简体字的字形差异及其原因根据日本内阁1981年颁布的《常用汉字表》(1945个)和我国通用汉字表中的一级、二级常用汉字(3500个),可以发现大约有600多个汉字存在着字形上的差异,其中属于结构字形上差异的大约有588个,如:県(县)、伞(伞)、(亲见)(亲)、気(气)、机(几)、里(里)、默(默)等;属于外貌字形上差异的大约46个,如:亚(亚)、渴(渴)、穂(穗)、鸟(鸟)等。(括号外的汉字为日本简体字,括号内为我国的简体字)。中日汉字在字形结构上出现差异,最主要的原因还是双方在汉字字形整理中遵循的取字或用字原则有别。主要体现在以下两点:1.日本《常用汉字表》取字比较注重“初形本义”.即所谓“传统字理”。如果从大处着眼,可以分为两大类型:一类是字形与字义两者完全契合的。如:“为、昙、碁、车、马、风、竜、贝”等字;另外一类是取字或者用字意图与本义并不完全契合,而只具有某种曲折的间接联系的。与前一类相比,后一类的情况在数量上占了绝对的优势。另外,如果数体都符合“初形本义”,即所谓“传统字理”,那么则选择以笔画少的为正体。如:“竜”与“龙”本是一对异体字,都能体现字的“初形本义”,但是由于前者笔画少,所以取其为正字。我国在整理字形时,本着从简,便于应用的原则。“整理字形的标准是:同一个宋体字有不同笔画或不同结构的,选择一个便于辨认、便于书写的形体;同一个字宋体和手写楷书笔画结构不同的,宋体尽可能接近手写楷体,不完全根据文字学的传统。”2.从深层次上讲,日本取字、用字的原则还与其文化息息相关。字形是文字内容的形式承载,是文字能够成其为文字的物质依托。对于文字实现其消除有声语言传递的时间障碍来说,字形固然是必要条件,而文字的文化功能,特别是其文化蕴涵功能又在很大程度上是通过字形来实现的。字形是汉字文化蕴涵的镜像。同一个字如果存在不止一个字形,也就是所谓异体字,其形义之间便有了多维的联系,而这种具有多维的形义联系的字形又有更多的机会蕴涵某种文化信息。同字异形不光有历时更替的,而且也有同时共存的。汉字从传入日本到现在,受到日本语言、社会、文化等多种因素的制约,融会为日本文化的重要部分,而日本为了使汉字能够很好地表现日本文化,在汉字字形整理中不仅兼顾“初形本义”,即所谓“传统字理”,而且更是以民族文化为本位。日本的汉字文化蕴涵1.单字文化蕴含考“灾”和“灾”,均属会意字。《说文,川部》:之灾。日本列岛濒临太平洋,属于著名的地壳变动地带,自古以来就是一个多地震、火山、海啸、台风和洪水等自然灾害的岛国,日本选用“灾”字的意图不仅是因为该字形描绘的是字义所指现象发生的原因——水、火,更符合“初形本义”,而且也符合日本的自然环境。而我国简化了的“灾”的字形只是勾勒字义所指现象的典型表现——房屋遭火焚。“羲”和“义”,“羲”为会意字,甲骨文从羊,从我(刀锯),表示用刀锯屠宰牛羊以祭祀。金文大同,篆文整齐化,隶变后楷书写作羲。而“我”是象形字,本义当为锯类工具,后假借为第一人称代词,《说文,我部》:“羲,己之威仪也”,日本依旧以“羲”为字形,未作简化,取字意图首先是为了确保该义所指概念密切联系的现象(我国则将其符号化,简化成了“义”,已无法看出字源)。另外,日本的“羲”,既不来自中国的儒学,也不来自东方佛教,是一个日本的范畴。包括良心、名誉、情面、义气等,实际上含有不让自己的名字和声誉被任何诋毁所玷污的责任。这种“羲”的责任在大量传统文学中得到赞颂,并被同武士的德等量齐观。其中最流行的就是堪称日本民族叙事诗的《忠臣藏》(又名《四十七浪人的故事》),讲的就是47位忠义浪人抛弃自己的一切,为主君挽回面子而复仇、然后集体剖腹的故事,起因就是一位地方大名自尊心受辱,觉得有损威严而已。虽然在世界文学史上并无多大的价值,但是却被选人本国的教科书,在剧院里演出,拍摄成现代电影,印成通俗出版物,成为今天妇孺皆知、日本生气勃勃的文化的一部分。“耻”和“耻”本是一对异体字,我国以“耻”为正体选用字,日本《常用汉字表》以“耻”为正体选用字,中日正好相反。《说文》:“耻,辱也。”小篆字形作“耻”,从耳从心,会意,给人以“听到批评时,心里羞愧”这样的联想。这是“耻”之“初形本义”。“耻”写作“耻”,由会意字变成了形声字,从耳止声,这是汉字经过隶变,很多偏旁和笔画混同了,这使汉字的理据性大大减弱。因而,学者们都认为“隶书”是古今汉字的分水岭。由此可见,日本《常用汉字表》取“耻”的意图不仅是因为“耻”这个字形更符合该字隶变前的“初形本义”、“传统字理”,即该字形是以本义所指概念引出的结果来表示本义的(我国则根据从俗原则取“耻”),而且从另一方面看,日本自古以来就是一个比较封闭的社会,至今也仍然谈不上开放,封闭、保守、排外等特色依然存在。长期以来,日本人已经完全习惯了在一个狭小、封闭的集团空间中生活,每时每刻都注意着他人的眼色、目光行事。著名的日本语言学家金田一春彦先生在自己每天行为的根本准则)。”所以日本人的“羞耻心”源于企图掩藏自己的毛病、弱点以及与他人的不同之处,避免因暴露了这些而受到歧视的心理,是一种以自己为核心,把自己和别人相比较时所产生的一种自卑心理。2.字组文化蕴含考(1)“颜”和“裹”——表和里的矛盾性格写照。“颜”为形声字,篆文从页,彦声。隶变后楷书写作“颜”。《说文,页部》:“颜,眉目之间也,从页,彦声。”本义为眉目之间,俗称印堂。后来又引申为额头、面容、面子、色彩等。“裹”,表示衣服的内层:绿兮衣兮,绿衣黄衣。后引申泛指里面。日本常用汉字表保留着这两字的初形,我国则简化成“颜”和的才是真心话)。”这就是日本人特有的“颜”和“裹”的行为观念。日本人一直用“颜”这个词来表示人格、人品、权力、名誉等,一方面注重表面上的现象,而另一方面,他们更重视“隐藏着的、朦胧的、模糊的”“裹”。日本人之所以注重“颜”,是因为他们认为这关系到人格、人品、名誉等,但是能左右这些的本质东西的还是“裹”。日语里有一句非常有名的日常生活中还可以发现日本人不喜欢露骨的、直来直去的说法和行为,因为一旦事情太明了,事物的任何价值也就随之消失了。 (2)男汤(男澡堂)、女汤(女澡堂)、钱汤(澡堂)、秘汤(坐落在深山中鲜为人知的温泉)——日本的澡文化“汤”,形声兼会意字。金文和篆文从水,汤声也兼表热义。隶变后楷书写作汤。《说文,水部》:“汤,热水也。从水,昜声。”本义为热水。又特指温泉(海内温汤甚众,有新丰骊山汤)。日本取其“初形本义”,未作简化,而我国则取其引申义(带汁液的菜食),简化成“汤”。基于火山众多这一独特的地理环境,日本成了一个温泉的王国,全国有数以万计的天然温泉,为日本人满足肌肤之悦、养生休息提供了取之不尽、用之不竭的源泉。不仅温泉浴场遍布东瀛列岛,而且投币式淋浴箱也随处可见,公共澡堂生意兴隆,使日本人成为世界上最喜欢洗澡的民族。洗澡在日本有着宗教上的意义,即洁净、清静及信仰,表现出对神的感谢和佛教中的无我无欲、身心皆融入净土般的“圣境”。追求“洁净”自然也就成为超越时代的、绝对的美学原则。这一原则深刻地影响着这个民族的审美感觉、道德意识乃至文化心理,给这个民族打上了鲜明的精神标记。如进门脱鞋的规矩和礼仪;还有千百年来,统治着日本主流画坛,最能拨动日本人心弦的,始终是那种清爽、明净,或略带朦胧的风格。3.字系文化蕴含考(1)“门”旁文化考——日本的和式建筑、空间文化一瞥。日本是寸土寸金的岛国,日本人合理地利用空间,巧妙地使狭窄的空间表现出美感、协调感和实用性,形成了特有的空间文化。而日本的和式建筑就是空间文化的代表杰作。其中最典型的就是“门”旁的汉字——“関”、“间”、“闲”。《说文,门部》:门,闻也,从二户,象形。日本为保持其象形度,借用该字后没有简化,(我国则省作“门”)。日本人说的“门”,几乎都是建筑在“边界线”上的门,是意味着与外界隔离开的大门,总称是“出入口”,一般都不上锁,而房屋内的门多用“~口”、“~户”。中国的宅院,一般都有好几个“门”,而日本的宅院只有一个。再看“関”字,为会意字,金文从门,中像有闩之状,隶变后楷书写作关,异体作阴。《说文,门部》:“关,以木横持门户也,从门, 声。”本义为门闩。日本把“房门前后的一块地”称为“玄关”,该处一般要比屋里低出十公分左右,日本人在接待外人时,常常在“玄阴”应酬而已,如轴、插一束鲜花,别无他物。看起来好像白白占去了一块空间,可是对于日本人来说,它是体现房屋主人审美情趣的重要空间。“同”,原为“闲”,会意字,用门中可以看到月光会空隙之意,篆文将月移到门中并整齐化,隶变后楷书写作闲。俗改月为日写作同。《说文,门部》:“闲,隙也,从门,从月。”本义为空隙。上述的“玄関”也是“间”的很好体现。“玄阴”既不属于房屋的“内”也不属于“外”,而是“内”与“外”的“间”。“玄阴”给主人和客人一个回旋的余地,主人可以在“玄関”判断是否请客人进屋。即使不请客人进屋,因为已经在“玄阴”接待了,所以也不算把客人拒之门外。日本人之所以很注重“玄阴”,留心把它搞得整洁明亮,就是因为“玄阴”是生活中重要的“间”。“间”是一种情境,一种氛围,它给人留有充分的想象、判断的余地,而这种“余地”是日本文化特别注重和推崇的。如果用“日”代表日本民族,用“门”代表社会环境或规则,那么,“间”字形就恰是日本的人际关系图。从外面的“门”到内部的“日”,中间存有空间,下边留有开口。这空间不是物理上的隔断,而是自己给自己定位并与外界保持联系;这开口是给人留有思考或回旋的余地,以便求得调和。即使是朋友,也要保持一定的距离,只有这样,才能产生“美”。所以日本人在表示时空意义上的范围时,更注重把它作为一个空白区的垫在意义。甚至干脆把“人”称作“人间”;伙伴儿称作“仲间”;不知道自己在社会上的子、笨蛋)”。不管与谁交往都要注意“间柄(关系)”。有人把日本文化称为“间人文化”(《间的日本文化》,剑持武彦著,日本朝文社)或“间人主义”(由日本著名教授滨口惠俊提出,相对于欧美国家的个人主义而言),意思就是行动时充分考虑他人或所属组织的立场、心情及相互间的关系,强调相互间的依存和尊重。日本人觉得“同”是一种平衡的感觉,无论对人还是对事,都可以通过其来介入,使原本不平衡的东西变得平衡起来,这里面深藏着日本人对人或事的一种调和感,并反映在日本文化的方方面面。如:日本人很少用握手来表示致意,而一般会和对方保持一段距离,用点头、弯腰鞠躬直至双膝跪下、上身伏地来表示。又如:俳句是日本文化独有的一种诗歌形式,有人说它是世界上最短的定型诗歌,一共只有17个音符。日本人认为好的俳句,并不要求它表达什么思想、主张、情感,更不允许出现什么议论、评判,而是能用语言描绘一个情境,给读者一个广阔的想象空间。即能创造令人产生种种遐想的“同”。江户时代的著名俳人地用一个“跳”字传神地联结在一起,构成了一幅时空相交,天地浑然的立体画面。而且它所描绘的那种空凉、寂寥的情境十分符合日本人遐想联翩的审美意境。日本的国技——相扑比赛也极好地体现出“同”的文化。每场比赛之间总穿插发悬赏金、喝大力水、撒盐净化土台等内容,用“间”把紧张的比赛分开,使比赛既紧张又轻松。观众置身于时间和空间相互交替的间隔中,尽情欣赏心、技、体融为一体的古老竞技。而参加比赛的运动员也在有意无意地磨练自己的“间”意识和“仲间”(伙伴儿)精神。日语里采用“兜圈子”式或婉转的否定式的中性、暧昧的语言也特别多。孕育出这种“间”文化的原因主要有二:一是自古以来的农耕作业要求众人的协调、配合和耐心。同时,年复一年发生的种种自然灾害使他们习以为常并采取积极对待的态度,人们学会了从变化中体会“美”的存在,对于一种状态向一种状态的转变即“间”倍加欣赏。二是日本几乎可以算是一个单一民族的国家,人们的生活习惯、宗教信仰等十分接近,所以意识形态也相对稳定,相互间有很强的文化认同感。日本人之间的人际交往中往往可以心照不宣地表达感情,“心有灵犀一点通”,而无须多费口舌。还有一个“闲”字,《说文,阴部》:“闲,阑也,从门中有木。”本义为栅栏。后来借作“闲”,由空隙引申为闲寂,这也可以说是日本人的另一种审美追求。由于日本的气候四季分明,日本人对大自然的变迁十分敏感,常常流露出与自然融为一体的感觉,这种“感性”的特征,使得日本人产生了“物哀、幽玄、闲寂”的美学理念。称作“和室”的日式房子干净整洁,在不奢侈的质朴中,给人一种回归自然的古雅和闲寂的美,从字形上看,日本人不愿意把含有自然之物的“木”(日本人更愿意理解成树木)的“闲”字进行简化,我们也就可以理解了。因此,在“门”旁汉字中,不仅蕴涵了日本民族居住空间的审美意识,而且透示出他们对“距离产生美”的审美意识。(2)“気”字短语一自然与人和谐统一的体现。我国简作“气”,象形字,甲骨文像云层形,因与数字“三”形近易混,金文与篆文稍加弯曲,以像云气升腾流动之状,隶变后楷书写作“气”。《说文,气部》:“气,云气也。象形。”本义为云气。后来做了偏旁,“云气”之意便借用“气”来表示,日本简作“気”,即下半部多了个“乂”。《康熙字典》:“五”,古文为“乂”或于上下各加一平横。《汉字源流字典》:“五”,象形字,甲骨文本像两物交叉形,或于上下各加一平横,以突出纵横交错之意,金文大同,篆文整齐化,隶变后楷书写作“五”。《说文,五部》:“五,五行也。从二。阴阳在天地间交午也。”这是就当时的社会思想所作的附会,本义当为纵横交错。而日本根据《说文》的解释,以与本义密切相关的现象来表示本义为取字意图:“気”实为五行之气,五行即金、木、水、火、土。王充曾在《论衡》中说过,五行之气生万物,人用万物做万事,如果五行之间不能相制,则不能相使,不相克则不能为用。诸物之间相害相利,动物之间相胜相食,都是五行之气在起作用。指出了五行之间相互依赖、相互促进、相互排斥、相互克制的关系。正是这种关系的协调、结合,才使宇宙万物经常处于平衡的状态。日本人在日常生活当中,不仅尊重大自然、亲近大自然,而且非常注重人的心灵感受,良好地保持着和他人的和谐关系,在引进“气”的同时,根据自己本国的生活习惯、思维等对“气”的意义作了进一步的延伸和扩展,使得日语中的“気”更具有一种形象的、生动的色彩。“気”的意义随搭配词及使用场合的不同而不同,不仅能表达变化、流动的自然现象,而且更钟结语中日简体字的字形差异主要表现在结构方面,日本的取字原则不仅兼顾“初形本义”,即所谓“传统字理”,而且更体现了以民族文化为本位的思想意识。另外,日本对会意字的保留情有独钟。所谓会意,就是字形构成、形义联系比较松散,需要借助某种程度的联想来领会其理据。这种性质决定了由会意方法构成的汉字有较多机会传载有价值的文化信息。而且从另一个角度也说明了凡是构成理据所蕴涵的取字或用字思维不符合异国人的思维规律或难以理解和接受的会意字,一般都有某种独特的有价值的异域文化信息蕴涵其中。反之,其构成理据只反映了共同思维规律、普遍观念意识的会意字则一般无跨国文化蕴涵可言。

语言是一种文化现象,不同民族的文化反映在不同民族的语言之中,离开语言所依赖的文化背景,就很难真正学好一门外语。下文是我为大家整理的关于日本文化日语论文的范文,欢迎大家阅读参考!

论从日语构造和日语运用看日本文化

摘要:“人的思考习惯”是指说同一种语言的人们共同拥有的一种认知习惯的总和,它是人们每天无意识的习惯性的思考和行为模式的基本,这些集合起来就成了文化。总之,用某种语法构造说出来话的意思是以说话人的认知习惯为前提在文脉中产生的。在这里面,又是和作为文脉的文化联系在一起的。要弄清楚作为文化基本要素的人们的思考习惯,一个很重要的线索就是语言。

关键词:言语文化学;言语意识;言语表现;日本文化

牧野成一说过,言语文化学既不是用文化来解释言语,也不是用言语来解释文化。假定可以显示某种言语现象和文化现象有某种必然的联系,那就要通过明确地提出具体是在什么时候来证明言语与文化的有机性,有缘性。总之,所谓言语文化学,是一门以已经作为社会习惯确定下来的言语的,文化的各个特征为研究对象,通过和两者有关系的普遍的媒介物,达到科学的记述的目的。本文即从日语的言语文化分析的视点,弄清楚日语和日本文化是如何联系在一起的。

一、日语构造里的文化

(一)词汇与日本文化

作为单词的总和的词汇,可以说在相当程度上反映了使用者所处的自然环境,社会文化,以及生活在里面的人们的思考方式。

1.词汇中反映的日本的传统文化和外来文化的交错

日语词汇里,反映了日本固有的要素和外来要素混合的文化。例如:和语•汉语•洋语混在一起。比如我们仅限于衣食住方面的话,衣方面,有「着物」「ゆかた」「帯」「寝巻」和「シャツ」「パンツ」「パジャマ」等,食方面,有「米」「汁」「豆腐」「すき焼き」「酒」和「スープ」チーズ」キャンディー」等,住方面,有「玄関」「ふすま」「縁侧」和「ドア」「ベランダ」等。所有的都包含三种语种,这三种语种的竞争,正反映了日本传统文化和外来文化交错的姿态。正是这种二重构造才是日本文化的特征。

2.特殊的一群――拟情词(拟声词•拟态词)

金田一春彦教授认为,在很多言语的词汇体系中都是空白部分的拟情词的存在是日语词汇独特的一个特点。都说日语里拟声词和拟态词多,虽然不能说这是日语独有的特色,但是这种单词的多用是感觉的,非分析性的事物认识的一个例证。例如:イライラ•ムシャクシャ•ヤキモキ…等等,对外国人来说很难理解吧。ホットする•ハレパレとした気分•スッキリした•(胸の中が)モヤモヤしている•ウンザリだ•ガッカリだ……等等,总是把感情状态分得特别细,有时描写很激烈的动作的状态的语句非常丰富,被经常和频繁地使用。ショゲル•フサギコム•ムクレル•ムカツク•ジレル•イラダツ•侘ビル……等等,对于把这种不断地感情的摇摆的心情分得如此之细的日本人来说,如果让他们生活在没有拟情词的“意思世界”里的话,他们一定会感觉到非常痛苦。

(二)语法里的文化

1.语序

日语是所谓的SOV(主语+宾语+动词)的语序。即:不仅是句子的信息,句子基本的意思构造不到句末是不能理解的。例如:

彼女は日本语教师になりました。

彼女は日本语教师になりませんでした。

彼女は日本语教师になりたかったんです。

彼女は日本语教师になりましたか。

句子是记叙句,否定句,还是疑问句不到句末是不知道的。可以说一直到句末都有悬念。如果把句子的信息当作是内部的话,像日语这种语序的语言,到达内部的过程就不显得唐突,比较缓和。从听者来看,不能从句首就能把握整个句子,而是从外部慢慢地到达内部。

2.自动词和他动词的使用选择

(1)不使用“他动词句”而选择使用“自动词句”

お茶が入りましたよ。(自动词句)

お茶を入れましたよ。(他动词句)

这是说话人给对方倒完茶之后的场景。这个时候,不用他动词句「お茶を入れましたよ」,而是多用自动词句「お茶が入っていますよ。」通过用说“茶已经倒好了”这个显示结果的句子,来抹掉主语“我”,这是一种不涉及到是“我把茶倒好了”的说法。如果使用他动词的话,就成了包含有“我为了你把茶泡好了”这种自己的行为给对方带来恩惠的说法,会让对方不愉快。

(2)取代使用“自动词句”而选择使用“他动词句”

部屋を散らかしていて、すみません。(他动词句)

部屋が散らかっていて、すみません。(自动词句)

前者和后者都经常被使用。前者的他动词句子是说明把房间弄的很乱的是自己,有一种给对方带来不愉快而道歉的表达方式。后者的自动词句子只是说明“房间很乱”这个状态,至于是谁的责任则比较暧昧的说法。这种情况下,比起用自动词句,用他动词句对道歉的心情更强烈些,会给对方更好的印象。

使用自动词句还是使用他动词句有以下的倾向:

自己(动作主人)直接或间接的会给对方带来负面的影响的情况,如果使用自动词句,容易招来“回避责任”的误解,所以为了确实的给带来麻烦的对方传达道歉的心情,比起用自动词句,有更多的会选择使用他动词句的倾向;

自己(动作主人)特意采取给对方带来正面效果的行为的情况下,如果使用他动词句,可能会给对方一种“强加于人的好意”“自我主张”等的印象,所以更倾向于使用自动词句,而不是他动词句。

二、日语运用中的文化——言语

意识和言语行为(一)定型化的寒暄语――人际关系的润滑剂

所谓寒暄是指人和人见面的时候或分开的时候互相交换的礼貌的行为或语言。通过说这些话语向对方显示敬意或亲近的心情,使人际关系和社会生活顺畅。

说到寒暄语,包括:①人跟人见面的时候,“おはようございます”“お元気ですか”等;②表示欢迎的时候,“いらっしゃいませ”等;③分开的时候,「さようなら」「おやすみなさい」等;④回家的时候,“ただいま”“お帰りなさい” ;⑤出门的时候,“いってきます」”“いってらっしゃい”等;⑥吃饭的时候,“いただきます”“ごちそうさま”等。

日语中说这种固定的寒暄语是非常普通的习惯。 “毎度ご来店くださいまして有难うございます”“毎度ご乗车有难うございます” 像这种固定的寒暄语在日本社会中也是非常广泛地使用。而在很多其他语言中这种固定的句子是一个空白的部分。但是,对日本人来说,根据用不用寒暄语,用什么样的寒暄语,可以显示对人关系的很大的不同。有可能出现只是因为没有用寒暄语而导致人际关系的不和谐,而相反,也有只是一句寒暄语而成为点亮了对方心里的暖灯的情况。总之,寒暄语作为人际关系的润滑油被使用,如果没有寒暄语,就会成为一个很难居住的世界。

(二)支配敬语行为的心理

谁都知道,日语的敬语非常发达。尊敬人的心情在哪个国家都能见到,但是把它发展到整个语法和词汇里形成了完整的体系不能不说是日语的一个特色。在日语里,除了身份,地位等社会地位以外,职业以及相关的业务里自己从属的社会、年龄、性别等的差别等等这些要素规定了当事人的用语。不仅如此,这种不同,在谈话双方之间产生了落差的时候,必须选择可以均衡这种关系的话语。

一般使用的敬语的规则是,根据对方或话题中出现的事物跟自己的关系(上下•亲疏•利益关系),使用相适应的词句。当然也会考虑“待遇表现”或“品格语”。支配日本人言语行为的条件有很多,最主要还是由“敬意” 的表达方式和微妙的对人意识里的“心里距离”的拿捏这两种来决定的。总之,就是是否把对方和对象纳入“自己人”的范围,根据这种和自己心里距离的远近来决定采用何种用词。

三、结语

日语和日本人的意识互相影响,成为一体,形成了日本列岛上独自的一个精神空间。可以被称作“民族的精神空间”。这也同时可以称作“民族的言语空间”。“日本人像”也好,“日语像”也好都可以从中得到反映。本文以日语的言语文化分析为视点,从日语构造和日语运用这两个方面分析了“日语像”和“日本人像”。可以说通过一些词汇,语法和几个言语表达方面,一定程度上弄清楚了日语和日本人的认知习惯及日本文化是如何联系在一起的。当然,日语和日本文化的联系仅就在以上两个方面也都远远不止这些。例如,还包括日语中反映日本这个民族擅长和不太擅长的方面,日语中可以反映喜欢用自动词发想的日本人,授受动词的多用,被动语态的妙用,沉默的日本人,人称代名词的省略,暧昧表现,婉转的拒绝等等。这些都当作今后的课题来讨论。

参考文献

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浅析日本文化对日语成语的影响

摘 要: 成语是民族语言发展的产物,承载了丰富的文化信息,是语言词汇的精华。它就像一面镜子,清晰地反映出一个民族的文化特色。民族文化会在语言中留下深深的烙印,促使成语的形成。本文从自然环境、风俗习惯、宗教信仰三个方面论述日本文化对日语成语的产生、发展及形成所具有的重要意义。

关键词: 日本文化 日语成语 意义

“语言是文化的载体,是文化的积淀,更是文化的映像”[1]。语言中存在丰富的文化内涵。任何一种语言的产生、变化和发展都与其民族和国家的自然地理环境、社会文化和风土人情息息相关。正如日本语言学家森田良行先生所说:“言叶はそれを生み出した社会的文化であり、文化的视点を离れて言叶を考えることは生きた本当の言叶を眺めることにはならないであろう。”[2](语言是社会文化的产物,离开文化视点考虑语言就无法看到真正的语言)成语作为语言文化中文化性最强的一个部分,更是民族文化精华的体现。它就像一面镜子,清晰地反映出了一个民族的文化特色。

民族文化势必在语言中留下深深的烙印,促使成语的形成。学习和掌握成语既能提高语言表达能力又能增强文化能力,文化能力的增强必将有助于语言能力的提高。日本文化纷繁复杂,并且吸收多国文化的精华,拥有大量的成语。本文从自然环境、风俗习惯、宗教信仰三方面简述日本文化对日语成语的形成、发展的影响,引起人们对成语和文化之间关系的重视,进而更好地学习和理解日语成语,并在语言实践中准确地表达成语的意义,避免由于不了解日语成语的文化背景而产生令人啼笑皆非的错误。日本权威词典《国语大辞典》这样解释成语:“古人が作って、昔から屡々用いられて来た语句、合成语、熟语など二语以上が缠まってきた言叶。”(从古至今一直沿用的词句、复合语、熟语等由两字以上构成的语言)可见日语成语包括汉语中的二字四字词组、谚语、惯用语句、格言、歇后语等。

一、自然环境

“自然环境作为人类的生存空间,必将与该民族的文化特征有密不可分的关系”[3]。日本人自古以来生活在四面环海的岛国,盛产各种鲜鱼,从而形成了独特的“鱼文化”。从最普通廉价的「鰯」到最稀少昂贵的「鲷」都大量出现在成语中。「鰯の头も信心から」(精诚所至);「鲷の尾より鰯の头」(宁为鸡头,不为凤尾);「鲭を読む」(故弄玄虚);「鳗登り」(扶摇直上);「鲍の具の片思い」(一厢情愿);「虾で鲷を钓る」(抛砖引玉);「山芋が鳗となる」(鸡窝里飞不出金凤凰);「鲈庖丁」(尔虞我诈);「鼈が时を作る」(异想天开)等。正是因为“鱼”是日本民族饮食的主角,所以在日语成语中鱼的种类被详细地划分,各类鱼的形象特点也被刻画得淋漓尽致。因为日本的海产资源丰富,一年四季都能吃到新鲜的海产品,所以日本民族对食品调料便不像大陆民族那样急切和讲究。在日本很长时间只把「塩」和「味噌」作为调料品。「塩」是从海水中提取的,因此各家各户味道都一样。但是用大豆做的「味噌」每个人做的味道都不相同。如果自己做的「味噌」比别人的都香,就是非常自豪和骄傲的。于是便有了日语成语「出前味噌」和「味噌が上がる」(自吹自擂);「味噌を擂る」(阿谀奉承)。但是如果配方比例出了问题,「味噌」就会做失败,所以「味噌を付ける」就是“丢人现眼”的意思。此外,「味噌もくそも一绪にする」(好坏不分);「味噌が腐る」(指嗓音太坏)等。

日本列岛山多地少,自然环境特别恶劣,以种植水稻谋生。引水灌溉是种植水稻的重要必备条件,因此各家各户经常发生水源纠纷,成语「水挂け论」(争论不休)。日本民族以大米为主食,相关成语有:「他人の饭は白い」(家花不如野花香);「花より団子」(舍华求实);「朝饭前」(一蹴而就);「冷や饭を食う」(坐冷板凳);「饼は饼屋」(无论做什么事情还得依靠行家);「同じ釜の饭を食う」(亲密无间)等。

日本频繁受到台风、地震、海啸等多种自然灾害的袭击,古代日本民族对一切自然现象都十分恐惧、敬畏,他们认为人世间的一切都是有灵魂的,都是神的化身。日本民族信奉「神」「霊」「鬼」,认为「鬼」是「神」从天上、海上、山上派遣来到地上后的变形,它力大无穷、冷酷无情,非常可怕。由此产生「鬼に金棒」(如虎添翼);「鬼の空念仏」(虚情假意);「鬼の井沼に洗濯」(山中无老虎猴子称霸王);「心の鬼にする」(横下一条心);「鬼を酢にして食う」(天不怕地不怕)等。在威力无比的神和大自然面前,人要生存下来就必须祈求神灵的庇佑。日本全国各地遍布大大小小的「神社」,里面供奉着不同的「神様」,每年都要举行各式隆重的祭祀活动,日语称之为「祭り」。「最初の祭り」指非常隆重、热闹;而「後の祭り」指错过了时机,毫无意义。

自古以来,日本民族就在日本列岛上生存繁衍,岛国文化是日语成语的生命源泉。

二、风俗习惯

“风俗习惯是一个民族在特定的历史发展过程和地理环境中逐渐形成的,是文化形态的象征,涉及社会生活的各个领域”[4]。作为文化载体的语言必然会反映该民族的风俗习惯,并形成具有本民族特色的成语。

日本民族自古以来信仰「言霊」,认为语言具有不可思议的灵验力。这种灵验力既能带来吉祥,又会招致灾祸。心里期盼的吉祥如果随便说出来,「言霊」就会失效。日本民族对自己的语言慎之又慎,主张「言叶多きは悪し」(言多必失);「沈黙は最大雄弁なり」(沉默是最佳的雄辩);「口は祸の门」(祸从口出);「言わぬが花」(不说为妙)。由动词「言う」构成的成语绝大部分带有贬义:「言い落とす」(信口开河);「言いふらす」(散布谣言);「言いまくる」(口若悬河)等充分反映日本民族对发言的消极认识。

「花道」「茶道」在日本民族的生活中占据非常重要的地位,是闻名世界境界极高的艺术。成语「草花三年」指学习插花是从最一般的插草花开始练习的,但是要插得好至少要勤练三年,以此成语强调苦练基本功的重要性。「茶道」的礼仪作法非常难,但是早晨吃的普通的「お茶の子」是谁都会做的最简单的事,由此便有了成语「お茶の子さいさい」(轻而易举)。茶艺不精,随随便便泡茶有了成语「お茶を浊す」,指含糊其辞、马马虎虎。以茶为题材的成语还有「茶にする」(爱理不理);「灭茶苦茶」(乱七八糟);「番茶も出花」(旧貌换新颜)等。日本民族丰富多彩的生活是日语成语生存的肥沃土壤。 人类与动植物共同生活在地球上,朝夕相处。

某些动植物的特性在表达人的思想感情上有意想不到的效果,日语中就有很多以动植物设喻的成语。樱花是日本的国花,自古以来深受日本民族的喜爱。樱花花期极短,但它齐开齐落、绚丽缤纷、轰轰烈烈的“集团主义美”,在凋谢前依然保有高尚风范,这些都是日本民族毕生所追求的崇高品质。在日语中有许多以樱花为主题的赞美的成语:「桜は花に现れる」(才华横溢);「桜は七日」(在短暂的一生中也要干出宏伟的事业);「三日见ぬ间の桜」(世事无常)等。日本两大重要的节日五月五日的端午节一定要插「菖蒲」,九月九日的重阳节一定要装饰「菊」。但是节日第二天六日的「菖蒲」和十日的「菊」就没有任何用处。成语「六日の菖蒲」「十日の菊」就表示错失了良机,没有任何价值,意同汉语的“雨后送伞”。

「河童」是日本神话故事中虚构的动物形象,擅长游泳,也可以生活在陆地上,深得日本人的喜爱。「陆に上がった河童」(虎落平川);「河童に水泳に教える」(班门弄斧);「河童の川流れ」(淹死会水的人)。「鹈」是专门吃鱼的,它吃鱼时是一口将鱼整条吞下。借用这种现象成语「鹈呑みにする」比喻不求甚解,或是上当。「亀」是日本民族非常喜爱的动物,人们认为「亀の甲より年の功」(姜是老的辣),希望「亀は万年」(像龟一样长寿)。日本民族认为自己的体内都栖息着「虫」,这些「虫」长得什么样、藏在体内什么地方谁都不知道,平常这些「虫」潜伏在体内某个地方一动不动,让人没有任何感觉,但是一有时机它们就会行动起来令人难以对付。这些「虫」操纵指挥着每一个日本人的思想和行为,于是产生了很多以「虫」设喻的成语。「虫の居所が悪い」(心中不快);「腹の虫が纳まらぬ」(怒气难消);「虫すが走る」(令人作呕);「虫の知らせ」(事前预感);「泣き虫」(爱哭的人);「弱虫」(胆小鬼)。而「虫がいい」指体内的虫子在洋洋得意地任意摆布着人的行为,不管别人的感受,意同汉语的“自私自利”。此外,日语中还有很多以日常生活中常见的动物如猫、狗、牛、马等设喻的成语,在此就不一一列举。总之,动植物是日语成语取之不尽的丰富资源。对于这些带有特殊民族文化烙印的成语,一定要在了解民族文化内涵的基础上学习和运用,才能避免误解、误译、误传。

三、宗教信仰

宗教信仰作为一种社会意识形态,会给人的思维产生具有渗透性、持久性的动力。思想文化渗透同时伴随着语言渗透,不同的宗教信仰形成不同的文化特色,再现不同的文化传统。

日本民族的宗教信仰较为复杂,经历多个时期。中国的“道教”最早传入日本,日语成语「六神主なし」(六神无主),「六神」就是指道教中的“心、肺、肝、肾、脾、脏”六脏之神。随着中国汉字传入日本,中国古代提倡的“修己治人”的儒学也传入日本。儒教所推崇的“仁义礼智信”成为日本民族为人处世的原则,并对日本文化产生深远的影响,产生很多蕴含儒教思想的成语如:「孔子の倒れ」(人无完人);「犬に论语」(对牛弹琴);「男は松女は藤」(男尊女卑)等。公元六世纪佛教传入日本后,很大程度上改变了日本人的人生观,成了日本民族的精神支柱。在佛教中把善恶世界分为“欲界”、“色界”、“无色界”三界,最高的无色界称“有顶天”,能登上这一最高境界当然是欣喜若狂,于是有了日语成语「有顶天になる」(得意忘形、忘乎所以)。僧人们每天赤脚行乞,晚上回到寺院一定要洗净脚才给信徒们讲经说法,所以「足を洗う」表示洗手不干。和佛教有关的成语还有「仏顶面」(板着面孔、绷着脸);「仏の颜も三度」(事不过三);「お释迦に経を闻かせる」(班门弄斧);「有为转変は世の习い世」(世事无常)等。这些带有浓郁宗教色彩的日语成语已深入日本人的生活。宗教信仰给日语成语提供充足的养分。

综上所述,日语成语丰富多彩,充满智慧和创造力,是蕴含日本文化最丰富的语言单位,更是日本文化的精华和核心的体现,在文章和交流中使用率极高。我们必须重视对日语成语的学习和掌握,只有这样才能加深对日本文化的理解,并不断提高日语水平。

参考文献:

[1]苏金智.语言·社会·文化[M].北京:北京语言出版社,1994.

[2]孙满绪.日语和日本文化[M].北京:外语教学与研究出版社,2007.

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[6]古学谦,刘鸿鳞.汉日成语谚语对译[M].长春:吉林人民出版社,1981.

有关日语教学类学术论文

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3.论日本企业文化给我国企业发展的启发

4.论日本国花---缨花

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9.论日本的剑道精神

10.日本清酒的起源

11.浅谈日本艺妓

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13.关于人口老龄化

14.关于战后日本女性社会地位提高的研究

15.关于现代日语的敬语

四、外语教学理论与实践

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3.浅谈日语助词

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从“胜组”“负组”看日本人中流意识变化

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对日本传统祭祀文化的考察

日本传统祭祀文化研究

忠义--日本社会の柱

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因此透过寿司的制作和发展历程就可以看出日本人善于思考,富有创新精神;追求自然,崇尚自然;日本人的创新意识,日本人追求的自然与完美,以及生活的快节奏。日本民族对自己的.文化有着自己的看法,日本文化的融合性,日本文化的包容性,是日本文化得以强大的推动力。

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日本文化几乎就是世界文化的大熔炉,既重视传统又善于创新,饮食文化也是文化中相当重要的一部分,在反映日本饮食文化的众多食物中,最具代表性的便是寿司,本文。。逐渐深入的分析日本食文化的特点,进而得出日本博大精神文化的优点。

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日本文学指的是以日本语写作的文学作品,横跨的时间大约有两千年。日本文学的论文题目在很大程度上影响着论文的质量高低。下面是我带来的关于日本文学论文题目的内容,欢迎阅读参考! 日本文学论文题目(一) 1. 日汉否定表达的对比研究 2. 关于中日同形类义词的研究 3. 日本新闻翻译实践与研究 报告 4. 任务型教学法在日语专业语法教学中的实验研究 5. 浅谈日语寒暄语表现 6. 翻译补偿视角下的《雪国》汉译研究 7. 川端康成小说在中国的翻译·传播和接受 8. 《罗生门》与《鼻子》的汉译本对比研究 9. 日语拟声拟态词的汉译研究 10. 关于日语中“猫”惯用句的研究 11. 从日语教学的角度谈母语迁移现象 12. 从语用学角度对日语会话中省略表达的研究 13. 从语境看日语第二人称代词的隐匿性表达 14. 日本人的集团意识的研究及其 教育 指导 15. 日语外来语的特征及其教育指导 16. 关于日语教育中日本 文化 导入的考察与教育指导 17. 《伊豆的舞女》中文译本中拟声拟态词的翻译 18. 试论文学翻译中的译者主体性 19. 中日同形异义四字 成语 的对比研究 20. 社会语言学视角下的中日 广告 语言对比研究 21. 二十世纪七十年代以来中日流行语的对比研究 22. 奈达功能对等理论在影视翻译中的运用 23. 功能主义翻译目的论指导下的产品 说明书 翻译 24. 从《探求中国的山水》汉译本看游记类文本的翻译策略 日本文学论文题目(二) 1、语言类型学视野下的日汉语序对比研究 2、现代日语可能表达研究 3、现代日汉情态对比研究 4、中日同形异义汉字词研究 5、汉日动物词之国俗语义对比研究 6、日语拗、长、拨、促音与中古汉语音韵对应规律研究 7、司马辽太郎咱歴史小说研究 8、中国高校日语专业学生格助词使用的影响因素研究 9、韩日语助词共现对比研究 10、新中国日语高等教育历史研究 11、日本近代言文一致问题初探 12、韩日越汉字本土化过程研究 13、汉、朝、日同形异义汉字词对比研究 14、韩日禁忌语对比研究 15、汉日比较视野下的汉语对比对生性研究 16、汉日隐性性别词语对比研究 17、日语复句句式变化研究 18、中国高校日语专业学生中日同形 近义词 产出难易度影响因素研究 19、明治以来的日本汉字问题及其社会文化影响研究 20、日语多义感觉形容词的语义分析研究 日本文学论文题目(三) 1. 中日色彩语「青」侦娭偡傞対照研究 2. 中日同字词比较研究 3. 关于日语被动句和汉语“被”字句的对比研究 4. 现代日本语感情表现研究 5. 从《伊豆舞女》中文译本看翻译的跨文化交际行为 6. 《源氏物语》和歌汉译研究 7. 关于中日色彩词的对照研究 8. 中日惯用语中动物隐喻的对比研究 9. 中日耻意识及其在言语表达上的体现 10. 惠普日语客服的翻译实践报告 11. 关于低碳增长的日语学术论文翻译实践报告 12. 「逼傛偮偲」的暧昧性及其原因 13. 中日翻译中的语言文化差异与信息再现 14. 时尚类杂志文本的日译汉翻译实践 15. 新闻类稿件的翻译策略研究 16. 关于日语中食感表达的研究 17. 从认知语言学的角度分析日语中以“心”为中心的惯用句意义 18. 文学作品中人物描写的翻译技巧探究 19. 星新一小说翻译实践中翻译技巧的应用 20. 太宰治《人间失格》汉译本的比较研究 21. 对加译和倒译技巧的研究 22. 日汉翻译技巧-加译在实例中的运用和分析 23. 日译汉实践报告-《日本人和中国人这里不同》中常用翻译 方法 的应用分析 24. 日语长句的翻译方法-《日本人与中国人这里不同》翻译实践报告 25. 从功能对等理论看日译汉 句子 结构调整 26. 常用翻译技巧的应用 27. 日语中“手”的概念隐喻意义研究 28. 基于跨文化交际理论下的中译日分析 猜你喜欢: 1. 日本文学论文选题 2. 日本文学的相关论文 3. 浅谈日本文学论文开题报告 4. 日本文化毕业论文优秀范文 5. 文学论文题目大全 6. 日本文学方面的论文

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日本文学的发展历史没有中国文学那么久远,在思想上的认识也不是像西方那样前卫。下面是我为大家整理的浅谈日本文学论文开题 报告 ,供大家参考。

《 20世纪日本中国现代文学研究的比较视野 》

摘要:在日本真正具有学术意义和比较视角的中国现代文学研究始于竹内好为代表的中国文学研究会的同人。继竹内好之后,关于中日现代文学关系的研究逐渐增加起来,特别是从20世纪50年代开始越来越多的研究 文章 涉及这一论题,进入八九十年代这一研究取得了长足进展。但是,真正具有一定理论建树和思想深度的研究并不多见。而相比之下,伊藤虎丸的研究以其宏阔的思维视界和独到的理论深度表现出不同的个性特征。

关键词:20世纪日本;中日现代文学研究;比较视野

中图分类号:I0-03文献标志码:A 文章编号:1002-2589(2011)24-0116-02

中国与日本自古以来特殊的 文化 关系和进入20世纪二三十年代后紧张的民族矛盾,使日本人在打量现代中国和中国文学时,就特别关注中日之间的文化、文学关系,比较早的像井东宪的《中华民国的新文艺——与日本文艺的关系》(《都新闻》,)、泽村幸夫的《支那小说家的日本女性观——从张资平的作品谈起》(《东洋》34—)、中村光夫《鲁迅与二叶亭》(《文艺》,,收入《文艺读本·鲁迅》)、山东赋夫在《读卖新闻》(1936年10月22—25日)上发表的《鲁迅与我国文坛》等都显示了关注中国和日本文学关系的新视角。不过,在日本真正具有学术意义和比较视角的中国现代文学研究无疑是始于竹内好为代表的中国文学研究会的同人。

纵观竹内好的鲁迅和中国现代文学研究,始终内含着比较的视角。他从鲁迅那里,竹内好找到了自我反省和批判的契机,并由此展开对亚洲的近代化问题的思考。他说:“我看到,鲁迅以身相拼隐忍着我所感到的恐惧。更准确地说,从鲁迅的抵抗中,我得到了理解自己那种心情的线索。从此,我开始了对抵抗的思考。如果有人问我抵抗是什么,我只能回答说,就是鲁迅所拥有的那种东西。并且,那种东西在日本是不存在的,或者即使存在也很少。”也正是“从这一基本判断入手”,竹内“形成了对日本的近代与中国的近代的比较性思考”。[1]他的目的并不是停留在鲁迅和中国现代文学本身,而是以此为“镜子”,系统地对鲁迅所代表的中国现代文学进行分析,同时解剖与中国同属一个文化范畴的日本民族的文学及思想性,转而对日本的近代主义无情地加以鞭挞和批判。以此思想为基点,构筑了他的独特的思想体系,并以这一发展模式和价值取向从事其研究活动。比如竹内好强调鲁迅以文学启蒙国民精神的思想,肯定他通过“抵抗”,主体性地接受西方先进的思想与文化的“拿来主义”,据之以批判缺乏“抵抗”的“转向型”的日本近代化,实质上是把鲁迅研究纳入日本现实社会的批判之中,以鲁迅为媒介或参照展开自我反省与批判。对于他来说,亚洲,特别是中国的近代化亦即中国革命,使得对于近代日本进行批判成为可能。在他那里,亚洲首先就是中国。竹内经常说中国通过彻底否定传统而再生于现代,也就是通过“回心”而创造出新的自我。在这一意义上,竹内好得出了中国走的是不同于欧洲的近代化之路的结论。并主张通过现代中国这个媒介实现自我否定,这就是鲁迅所说的那种窃得别人的火烧自己的肉的行为,以促成新的文化自我形成。所以,丸山升认为,竹内好的中国论,比起论述中国本身来更倾向于论述和批评日本、日本文化、社会的“近代主义”。他指出:鲁迅之于竹内好,是“体现实现了与日本‘近代’不同性质近代中国之特征的文学家、思想家,他自身便是对日本近代的批判和镜子。竹内塑造的这种鲁迅像,之所以在战后不久的日本具有巨大的影响力,便是因为很多日本人开始回顾给日本带来那场战争的‘近代’究竟是什么,认真思考未能阻止那场战争的一方弱点是什么;而反过来,则对经过那场战争而作为新中国再生的中国抱有惊诧和敬意。竹内的鲁迅像正是抓住了这些日本人的心。”[2]

继竹内好之后,关于中日现代文学关系的研究逐渐增加起来。特别是从20世纪50年代开始越来越多的研究文章涉及这一论题,如武田泰淳的《中国小说与日本小说》(《文学》,第18卷10期,1950年10月),冈崎秀夫《中国作家与日本:关于郁达夫》(《文学》,第21卷9期,1953年8月)、丸山升的《鲁迅与厨川白村》(《鲁迅研究》19期,1957年12月)等。到了70年代上述论题得到了进一步拓展和细化,如今村与志雄的《鲁迅与日本文学》(《鲁迅与传统》日本劲 草书 房,1967年)、斋藤敏雄的《福本主义对李初梨的影响》(《野草》第19期,1975年6月)、小泉让《鲁迅和内山完造》(讲谈社,1979年)等。这些文章和论著都注意到了中国现代作家与日本及日本文学的关系问题,但是,基本上还停留在现象的描述和事实的求证上,像今村与志雄《鲁迅与日本文学》,直接把鲁迅与日本文学联系在一起,由鲁迅的留日经历来推断鲁迅与日本文学的关系。他认为,文学家鲁迅的形成,受到过日本近代文化的影响,也是顺理成章的。但是,他借助从1906年秋季以后就和鲁迅同在日本 留学 ,起居相守,又同是悉心文学的胞弟周作人在鲁迅去世后写的回忆,来证明鲁迅在漱石以外,对于日本文学并无兴趣。但事实上,鲁迅虽然没有对日本文学表示关心,但是,并不意味着鲁迅没有选择日本文学作为思想启蒙和文化批判的手段与工具。鲁迅一生翻译了相当一部分日本作品,据统计大约有六十五篇之多,像武者小路实笃的《一个青年的梦》、有岛武郎的《与幼小者》、夏目漱石的《挂幅》等。然而关于这一点,并没有引起今村与志雄的关注。

进入20世纪八九十年代这一研究取得了长足进展,不仅数量多,而且探讨的问题更加广泛,但是,真正具有一定理论建树和思想深度的研究并不多见。这个时期的研究视野从以下的文章题目中可以显示出来。像冈田英弘的《爱日本的中国人——陶晶孙的生涯和郭沫若》(《中央公论》95卷15期,1980年12月)、福田范正的《周扬和日本普罗文学运动》(《野草》第40期,1987年9月)、新谷秀明的《巴金和石川三四郎》(《野草》第54期,1994年8月)、小谷一郎的《日中近代文学交流史中的田汉—田汉和同时代日本作家的往来》(《中国文化》第55期,1997年)等。除了上述的论文外,1991年日本东方书店出版了由山田敬三和吕元明编著的《十五年战争与文学——日中近代文学的比较研究》,收辑了中日两国学者研究成果,从不同角度探讨了中日战争期间的中日文坛、在华反战文学、沦陷区文学和抗战文学,以及中日文学交流等,显示出强烈的“比较”意识和全面揭示中日现代文学关系的企图。像冈野辰之的《中国现代作家与日本文学》具有一定的代表性。它从和歌、俳句、私小说、文艺科学论和新村运动等几个方面,意欲全面地描述中国现代作家与日本文学的关系。然而,它所作的概述显得过于浅显和简单,并未能将中国现代作家与日本文学的复杂而矛盾的关系深刻地揭示出来。而相比之下,伊藤虎丸的研究以其宏阔的思维视界和独到的理论深度表现出与上述研究不同的个性特征。

伊藤虎丸是日本战败后,经历了民族的历史性深刻反省思潮的洗礼,并在这一思潮最主要的代表人物之一竹内好的深刻影响下,走上了中国现代文学研究之路。伊藤虎丸的研究有一个突出特点,就是注重中日现代文学关系研究,无论是鲁迅研究,还是创造社研究,他都将他们与日本文学联系起来展开思考,从而构成了他的比较视角。诸如《早期鲁迅对尼采的理解与明治文学》(1979年)、《鲁迅与日本人》(1983年)、《在“脱亚论”与“亚洲主义”的中间——日中近代比较文化论序言》(1994年)等,这些论著主要体现了两个特点。

第一,视野宏阔、思想深刻。伊藤虎丸注重在大的历史背景下,以中国现代文学为媒介思考日本近代化和民族命运,就是孙玉石所说的“大文化比较的视角”。孙玉石指出:伊藤“他习惯于从大的历史背景,从整个亚洲国家民族命运的视野,来思考中国现代文学所可能提供的历史的启示”[3]。在他的《鲁迅与终末论》、《鲁迅与日本人》等书中,在他的许多学术论文中,都在大文化比较的视角上,阐发了自己关于日本近代民族命运的思考。伊藤虎丸强调了采取比较的 方法 对于认识各民族的“文化”的意义,他说:“各个民族都有这样的‘文化’。它是只有用‘比较’的方法才能认识到的”[4]。其内在包涵着竹内好的“比较性思考”的精神,不过,相对而言,竹内主要把鲁迅和中国作为内在的否定性的“精神”存在或参照坐标,当然这也是伊藤虎丸的思想基点和最终归宿,但他主要是在同时代的文化选择差异性的思想史的意义上使用了比较的方法。而且,他突破了竹内好否定鲁迅与日本文学关系的论断,在日本明治和大正时期的思想语境中和文化空间里考察鲁迅、创造社同人与日本文学以及西方文化的复杂关系。

第二,方法独特、角度新巧。与上述特点紧密相连,不是一对一地具体考证中日作家或中日文学作品间的相互影响关系或进行平行研究,而是将鲁迅及创造社等留日作家纳入日本近代思想史的语境中,考察和梳理留日作家与西方文化及日本文学关系。一方面从日本思想界变化的历史轨迹中,在与日本的同时代关系中考察和把握鲁迅和创造社作家与日本文学的精神联系,比如考察鲁迅对尼采思想的接受与日本在接受上的差异;在民族主义问题上,把鲁迅与石川啄木、斋藤野人、内村鉴三等人进行同时代性思考;在科学主义方面,将鲁迅与福泽谕吉展开同时代性探讨。另一方面对非同时代的鲁迅和创造社进行“非同时性”的思考,比较和检视处在明治和大正不同时期的中国留日作家与日本文学的精神联系和他们之间的差异。这种在复杂的语境中的“同时代性”和“非同时代性”的多重比较,使日中文学关系的研究充满了深刻的思想张力。

参考文献:

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[4][日]伊藤虎丸.鲁迅、创造社与日本文学[M].孙猛等,译.北京:北京大学出版社,2005:26.

《 日本浪漫主义文学思潮 》

摘 要:浪漫主义文学思潮是18世纪末到19世纪前半期,以英国、法国、德国为中心在欧洲各地而兴起的一股革新思潮。这是欧洲资产阶级企图摆脱封建秩序和封建统治的运动在文学上的具体体现。在其影响之下,日本的浪漫主义文学也在约一个世纪之后兴起了。日本的浪漫主义文学思潮虽不像欧洲浪漫主义那般声势浩大,但也对日本文坛以及日本文学史产生了重大影响。

关键词:日本浪漫主义 背景 理论 作家 评价

欧洲浪漫主义文学思潮产生于18世纪末的英德两国,继而影响法国,席卷欧洲大陆。而这一时期的日本,由于资本主义得到了迅速发展,资产阶级迫切要求彻底摆脱封建主义的束缚。另外受西方文明刺激的影响,人们的自我意识觉醒,开始追求自我确立与自我解放。一批青年作家开始追求与以往的文学所不同的创作风格,使明治时期日本浪漫主义文学一度在日本文坛上占据半壁江山。

一、时代背景

明治维新之后,日本走上了发展资本主义的道路,资产阶级改革运动取得成功,日本社会极力要求摆脱封建主义的束缚。另外在西方浪漫主义和文化的刺激影响之下,日本人开始超越理性,注重关心自己的内心和情感,促进了自我意识的觉醒。于是自由且大胆地表达感情的感想、诗歌、评论等一些文体占据了日本文坛的半壁江山,在这种政治文化背景之下浪漫主义文学在日本也登上了历史舞台。

二、 理论表现

日本浪漫主义文学思潮深受西方浪漫主义的影响,对于人的崇拜代替了对于神的崇拜,开始重视人的力量,将人处于整个社会文化的中心地位, 宣扬人格的平等和自由、主张恢复人性、尊重人权、张扬人性爱。但是, 这种思想的变革, 与根深蒂固的封建保守势力发生激烈的冲突,文化上的开放与保守、民主与专制、 自由与禁锢两种思想的对立大大加剧。正是这种矛盾思想的激烈碰撞才使日本的浪漫主义文学拥有自己独特的理论。即:主张情感至上,追求人的真情实感的自然流露,追求个人自由,推崇人的内部生命。

三、代表作家及作品

根据时间先后可将日本的浪漫主义文学分为3个时期: 第一期是以北村透谷、 岛崎藤村的《文学界》为中心; 第二期是以与谢野铁干、与谢野晶子、薄田泣堇、蒲原有明、泉镜花等人的《明星》为阵地;第三期是北原白秋、吉井勇、永井荷风、谷崎润一郎等人的唯美主义、颓废文学。①

森鸥外是开日本浪漫主义文学之先河的先觉者,他的代表作《舞姬》、《泡沫记》、《信使》构成了他留德的青春爱恋的纪念三部曲。

(一)第一期代表作家及作品

如果说森鸥外开日本浪漫主义文学之先河的话,那么真正成为浪漫主义主导力量的是于1893年1月创刊的《文学界》杂志及其周围的年轻一代。这一时期的典型代表是北村透谷的评论、?口一叶的小说和岛崎藤村的诗歌。

北村透谷主要作品是长诗《楚囚之诗》和《蓬莱曲》等。但是北村透谷更加重要的史学价值体现于文化性评论方面,从1892年起陆续发表《厌世诗家和女性》、《何谓干预人生》、《内部生命论》等文章,其中最为著名的是《厌世诗家与女性》。这是他通过自己的实际感受和体验以伦理化的形式表达出来的结果,文中大胆地提出了“ 恋爱乃人生之妙药”这一具有划时代精神的主张。

岛崎藤村的《嫩菜集》等诗作,打碎了固有形式的桎梏,巧妙地把西方浪漫主义诗歌的表现手法和日本民族的传统表现形式糅合在一起;其内容摆脱了封建思想道德的束缚,热烈追求个性的解放和美好的生活,充满了青春的气息和奔放的浪漫情绪,开拓了前期浪漫主义文学。②

?口一叶是一位慧星一般的才女作家,一叶虽非《文学界》同人作家,却有许多传之后世的名作刊于《文学界》。其代表作品有《大年夜》、《青梅竹马》等。(二)第二期代表作家及作品

这个时期最伟大的天才是与谢野铁干的妻子与谢野晶子。她出版的第一部短歌集《乱发》是一部大胆而直率倾吐感观性与歌颂奔放的本能和主情的爱欲的诗集。反映了诗人对因袭封建旧道德的一种反抗,让人们感受到她是一位与众不同的新时代女性。

在文学史上,泉镜花的小说代表了这一时期的浪漫主义。在他的一生中大约创作了300多篇小说,都具有独特的浪漫主义风格。非常著名的代表作有《高野圣僧》、《照叶狂言》、《妇系图》和《和歌灯》等一系列优秀作品。

这个时期不得不提到的一个人物就是高山樗牛,他是一位著名且受人欢迎的评论家。他的主要作品有《论美的生活》、《 日本民族的特性和文学美术》、《爱情剧是不是梦幻剧》等等。其中,在同时代文学评论中最有影响的是《论美的生活》,从“生命重于身体、身体重于衣物”的立场出发,讽刺了那些汲汲于金钱、权势的人,“以人造之物制自然之物” 的时代弊端,重视“尔等内心的王国”,鼓励人们去大胆追求内心生活的幸福。

(三)第三期新浪漫主义作家作品

新浪漫主义以“牧羊神会”为主流,《昴星》、《屋上庭园》、《三田文学》、《新思潮》等是其主流文学。主要代表人物有北原白秋、木下?太郎、吉井勇、长田秀雄等“牧羊神会”的中心成员,高村光太郎、谷崎润一郎、永井荷风等人在文学思想上与之共鸣。这些作家摆脱了此前浪漫主义的影响,迎合唯美主义的思潮,用华丽的笔墨和丰富的词汇,凭感觉创作出了充满异国情调和肉欲主义的作品。

三、思潮评价

日本浪漫主义虽不像欧洲浪漫主义那般声势浩大,但也在日本产生了重要影响。它一度占据日本文坛的半壁江山,对日本人的思想、日本文学、文化、艺术都做出了不可磨灭的贡献。

首先,它主张恢复人性和尊重人权,将“人”置于整个社会文化的中心地位,并自始至终和封建主义作着斗争,促进了日本社会民众自我意识的觉醒,有利于资本主义的发展。其次,在文学创作上主张把人性和自我尊严作为文学的源泉或出发点,打破了古典主义的清规戒律,是继启蒙运动以来又一次在文学上的解放。再次,日本浪漫主义将日本古典的浪漫主义与西欧浪漫主义加以吸收发展,从而在构建日本的近代文化方面具有深远而伟大的意义。最后,浪漫主义主张个人的自由,赞美恋爱,使人们大胆地追求独特而自由的艺术创作,超越自然,解放艺术,因此在艺术史上都具有深远影响。

但是,日本的浪漫主义文学也具有局限性。表现在三个方面:

(一)软弱性和妥协性

它从一开始发展就面临着重重阻碍,自始至终都不如欧洲浪漫主义那般声势浩大。另一方面,明治维新的不彻底性造成了封建思想在市民社会中的长期残留,极大地阻碍了浪漫主义追求自由主义和个人主义的步伐。

(二)创作主张具有不确定性

日本浪漫主义从一开始就是在与拟古典主义和自然主义斗争中发展起来的,没有自身独立的发展时期。另外,浪漫主义作家内部围绕着文学创作的使命、文学的社会责任、文学的国民性、文学的民族性、文学与国家、文学与个人等问题进行论争,创作主张十分不确定。

(三)理论缺乏系统性

北村透谷、岛崎藤村、与谢野晶子、高山樗牛等人的创作虽然使浪漫主义的主要代表人物具有了开创新文学时代的个性鲜明的批评家、文学思想家的桂冠, 但却没有形成一个观点明确、前后一致、系统而又有说服力的文学理论体系。

注释

① 肖霞.日本浪漫主义文学的发展及特征[J].外国文学,2003(7).

② 叶渭渠,唐月梅.日本文学简史[M].上海:上海外语 教育 出版社,2006:149.

参考文献

[1] 叶渭渠,唐月梅.日本文学简史[M].上海:上海外语教育出版社,2006:149.

[2] 林洪亮.浪漫主义文学的产生及其代表作家[A]//外国历史大事集?近代部分(第三分册)[M].重庆:重庆出版社,1985.

[3] 王庆生.文艺创作知识辞典[M].武汉:长江文艺出版社,1987.

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日语论文开题报告范文

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论文题目 格助词「デ」の意味・用法

论文大纲及撰写计划

1.はじめに

2.先行研究

3.「デ」格の各意味用法

范囲の限定

地点・时点の限定

事物の限定

4.「ニ」格との相违

场所を示す

时间を示す

原因を示す

5.おわりに

撰写计划

2009年10月-11月 查找资料,拟定题目

2009年11月-2010年2月 完成初稿

2010年2月-2010年3月 完成二稿

2010年3月-2010年4月 完成终稿

主要参考书目 菅井三実1997「格助词デの意味特性に関する一考察」『名古屋大学文学部研究论集』P127森山新2002「认知的観点から见た格助词デの意味构造」『日本语教育』115,1-10

森山新2004「格助词デの放射状カテゴリー构造と习得との関系」『日本认知言语学会论文集4』P66-75

森山新2006「多义语としての格助词デの习得过程」『认知言语学考论』

森山新2006「JSL(第二言语としての日本语)における格助词デの习得过程に関する认知言语学的考察」『日本认知言语学会论文集6』

杉村泰2005「イメージで教える日本语の格助词と构文」 『言语文化论集』17-1

审核老师意见

所选题目名称:

外来语の激増の原因とその影响について

外来语激增的原因及其影响分析

课题研究现状:

外来语是西方国家先进的文化和科学技术成果不断流入日本的证明。而使用外来语是我们学习和使用日语过程中的一种普遍现象。随着社会的进步和人类文明的发展,外来语作为一种社会语言现象和文化现象,促使了日语本身的发展和日本社会文化的进步。同时随着外来语在日语中的泛滥,也出现了不少问题,引起了日语学习和研究者及日本社会的广泛关注。

关于日语外来语,《大辞泉》(小学馆)将其定义为:ほかの言语から借用して、自国语と同様に使用するようになった语。借用语。日本では、広义には,汉语を含まれるが、狭义には主として欧米诸国から入ってきた语を言う。现在では一般に片仮名で表记される。1956年日本国立语言研究所就日语中和语,汉语,外来语,混合语几类构成日语的词汇,对大众化的90种杂志进行调查,得出以下数据:和语 汉语 外来语 混合语。10年后的1966年同一研究所又以《朝日新闻》,《每日新闻》,《读卖新闻》三大报纸一年的日报,晚报为对象,进行了日语词汇构成比的调查,得出以下数据:和语 汉语 外来语 混合语。由此可见,10年岁月的推移,外来语的比例得到一定程度的提高。此外,外来语在日本社会和文化中的作用也引起了广大学者的关注。日本学者荒川物兵卫在《角川外来语辞典》(1969)一书中指出:“一个个单词是民族文化的种子,一个个外来语则是一个民族吸收外来文化的种子。”《实用最新外来语辞典》(1979)的序作者富道勇夫也曾说过:“难于出口的话语用外来语说就容易多了。”

随着中日两国间的不断交流和合作,越来越多的中国人开始学习和研究日语。日语外来语也受到了一些从事社会语言学研究的学者的兴趣。皮细庚在《日语概说》(皮细庚,1996)专门辟章探讨了外来语,是外来语研究历程中的一块里程碑。皮细庚不但讨论了外来语的来源,揭示了外来语的本质,还分析了外来语的特点,着重将外来语和原语进行对比,对其中的“和制英语”作出了详细的解释。此后多年我国外语界的一部分学者深受外来语研究的启发,陆续发表了一些论文和书籍。

特别是进入21世纪后,国内学者对外来语研究的范围更加广泛。郑成在日语学习与研究(2001年第4期)上发表了名为《试析日语外来语与日本的社会心理》的论文。郑成不仅深入研究了外来语的特点,还深刻分析了外来语使用的现状,提出外来语激增的双刃剑作用,更将外来语和日本历史社会的心理联系起来。沈宇澄在其主编的《现代日语词汇学》一书中就外来语的作用、表记、语义展开讨论。朱京伟则在《日语词汇学教程》(2005)中论述了外来语的特征和历史,同时也分析了外来语和原语的区别,特别提出了外来语和在来语的关系。《相识日语》(2005)的作者王冰从外来语词语的移植方式的角度对外来语进行了研究。

综上所述,近年来有很多学者都对外来语进行了探讨和研究,主要集中在外来语的来源、特征、现状、作用及同原语的比较上,并且都已取得重要的研究成果。然而,对外来语近年来激增的`原因及其影响的研究略有不足,所以本文将着重研究外来语的激增原因和影响。

课题研究目的:

本文通过对日语外来语激增的原因及其影响分析,旨在加深对外来语的了解,以便为广大的日语学习和研究者带来更多便利,方便其更好地使用外来语。由于外来语在日语中的比例不断增加,所以全面而深入地研究外来语对于我们学好日语,进行中日跨国交流有很大的帮助。外来语不仅是一种语言现象,也可以视作一种社会和文化现象,因此对外来语激增原因及其影响分析对外语教学研究、翻译和实际应用都具有积极地指导意义。

课题研究要点:

1 引言

2 外来语的定义

3 外来语的现状(激增)

4 外来语激增的原因

社会发展的客观需要

日本人的心理原因

日语本身的语言结构特性

5 外来语激增的影响

积极方面

a外来语高雅、新颖

b能委婉地表达事物

c 能精练表示事物的概念与区别

d 有利于日本的国际交流和经济文化的发展

消极方面

a 日语丧失其纯正性

b 造成不同年龄段间的语言交流障碍

c 外来语的泛滥和误用

6 结论

课题进度安排:

10月30日,提交开题报告。

11月3日,参加开题答辩。

1月8日,完成毕业论文初稿(电子稿)。

3月18日,完成毕业论文终稿(纸质稿)。

3月27日,参加毕业论文答辩。

主要参考文献:

1富永道夫.实用最新外来语辞典[M].日本千曲秀出版社,1979(这是日本文献,请用日语表达)

2荒川物兵卫.角川外来语辞典[M].角川书店,1969

3铃木孝夫.闭ざされた言语:日本语の世界[M].东京岩波书店,2000

4皮细庚. 日语概说[M].上海外语教育出版社 ,1996

5沈宇澄.现代日语词汇学[M].上海外语教育出版社,2005

6王冰.相识日语[M].北京语言大学出版社,2005

7郑成 .浅析日语外来语与日本的社会心理[J].日语学习与研究,2001(4)

8朱京伟 .日语词汇学教程[M].外语教学与研究出版社,2005

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